※真空(マカーラ)とは、アラビア語で論考の意味
能登半島地震と京都面白大学 2024年3月25日 鎌田東二
2024年の幕開けは深い衝撃とともにあった。いうまでもなく、正月元旦16時10分に、能登半島地震が起きたからだ。石川県能登半島でM7・6の地震が発生し、大規模な被害に見舞われた。
その衝撃の冷めやらぬ中、1月2日の明け方、奇妙な夢を見た。京都大学総長になるという夢だった。教授会か総長選考委員会のような集まりの前で、京大総長になって「京大を日本一・世界一・宇宙一の「『おもろい大学』にする!」と演説している。しかも、自作の歌を一人で歌いまくる。そんな滑稽でけったいな夢だった。一笑に付す笑い話のような夢だが、それを「霊夢」と思い込んだわたしはすぐさま地元の曼殊院門跡弁天堂と天満宮と鷺森神社を参拝し、Independent University「京都面白大学」の設立を神仏の前で誓い、設立宣言書を書き、その日(2024年1月2日)の朝から授業をオンライン配信し始めた(すでに、第1講から第111講(2021年3月25日現在)までYouTube配信・公開済み)。
能登半島は日本列島の脳髄、後頭部だ。日本の「奥の奥」「芯の芯」である。
そこから真の「むすひ」と「修理固成」が実現しなければ、日本列島の再生も賦活も不可能だと思う。そこで、まずは自分一人でできる個人立の「独立大学」(Independent University)を始めたのである。
1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災の後、1998年に友愛の共同体としての市民大学「東京自由大学」を設立した。現在は、島薗進さんが学長である。そのことを踏まえて、兄弟姉妹校・提携校として、ライバル大学?として、「京都面白大学」を設立したのだ。
その基本精神は、東京自由大学(https://www.t-jiyudaigaku.com/;http://jiyudaigaku.la.coocan.jp/)と同じであるが、すでに四半世紀の時が流れて、いくらか異なってきたところもある。
簡潔明瞭に、「京都面白大学」のスローガンを次のように設定した。
*すべてのいのちを仰ぎ尊び、「不殺生」(非暴力)戒を守り、「草木国土悉皆成仏」の世界実現をめざし、寄与し、奉仕する。
①楽しい世直し
②明るい体ほぐし
③優しい心直し
④美しい魂むすび
⑤嬉しい道つなぎ
⑥「自由自在(みずからに由りて、おのずからに在る」
⑦「遊戯三昧(ゆげざんまい)」
この7項目をモットーとして生き、たのしく、いきいきと活動したい。
これまで、わたしは、能登半島に本当に強く魅かれてきた。そして、その能登半島の中心にある「真脇遺跡」を日本最高・最奥の縄文遺跡だと直観し、その重要性、未来可能性、学ぶべきメッセージの宝庫であることを、事あるごとに訴えてきた。
そして、正月の能登地震以来、さらにその思いが強まり、Independent University 京都面白大学(https://kyoto-omoshiro.studio.site/)をつくって、さらにその大切さを訴えている。
京都面白大学は、くらげなすただよえる島(『古事記』が表記した古代の日本列島のこと)の、<クラゲ大学>で、つかまえどころがない大学だ。軟体動物で、自由自在に変形し、組み合わさる。これまでにない、いい加減な、まったく自由ななんでもあり大学。文科省の制限もまったく受けないし。
2024年3月25日現在の学部構成は、以下のとおりだが、機会あるごとに増殖変形し続けている。
1, 遊ぶっきょう学部:町田宗鳳学部長(静岡県御殿場市在住・広島大学名誉教授・ありがとう寺住職)仏教の真髄を学び直し、摑み直して実践に活かす。
2,縄文産婆学部:藤川潤司学部長(熊本県玉名市在住、音の和ミュージック)楽しい世直しartsof peaceのワザと楽を体験・体得・体現する。
3, 縄文文化学部:石井匠学部長(歴史民俗博物館研究員・縄文考古学・岡本太郎研究、縄文ライフ・マインド・スピリットを最新考古学と最深太郎学を通して摑み直す。
4, アジアアフリカ未来人類文化学部長(東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授・アフリカ研究)~超学際的な手法による「アフリカ日本学」の構築 Hunter-Gatherer societies
5, SF未来文化学部:2023年度の日本SF大賞を受賞作『SF的思考』(小鳥遊書房)をベースにSF的思考と想像力を練り、未来に備える。
6, ケルト文化学部:名誉学部長・鶴岡真弓(多摩美術大学名誉教授、ケルト研究)極東日本と極西ケルトは地球対称軸である。そこに蓄積された重層化され、多重化された知恵のスペクトルを学ぶ。
7,「ぼくは始祖鳥になりたい」学部:宮内勝典学部長(作家)『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫,2023年)は、黙示録的な預言書である。わたしは、いつも、「ぼくは始祖鳥になりたい」と念じながら、登拝した比叡山山頂のつつじヶ丘で、天地人に3回バク転を捧げて祈ってきた。本当に、ほんとうに「ぼくは始祖鳥になりたい」のだ!
8. 地球防災学部:里深好文学部長(京都市在住、立命館大学教授・防災フロンティア研究センター センター長・森林科学)決定21世紀後半は「地球防災」が最大の課題になると元号が「平成」に変わってから30数年ずっと思い続けてきた。防衛費を増額するなら、そのすべてを「地球防災費」に投じるべきだ。そして、「地球防災連合」を作るべきだと提案してきた。今も提案しつづけている。
未来地球防災学部客員研究員:藤井満(元朝日新聞記者、能登半島輪島支社記者歴4年)
9,ホリスティック医学・ソマティック心理学部:降矢英成学部長(東京都在住、赤坂クリニック院長・元ホリスティック医学協会会長)
10,メタ・メディカ・未来医療・医療人類学・公衆衛生学部:長谷川敏彦学部長(一般社団法人未来研究機構代表理事・元日本医科大学教授・医療人類学・公衆衛生学)
11,メタ・レリギオ・超宗教宗教協力学部:鎌田東二学部長(兼務、京都大学名誉教授・宗教哲学・民俗学)未来医学はメタ・メディカに進化しなければならない。
12,現代宗教・グリーフケア・スピリチュアルケア・死生学学部:島薗進学部長(東京都在住、東京大学名誉教授・NPO法人東京自由大学学長、日本スピリチュアルケア学会理事長・宗教学)そして、現代宗教はもっともっとケアに向かって深化しなければならない。
13,宗教と医学・医療学部:加藤眞三学部長(東京都在住、慶應義塾大学名誉教授・MOAクリニック院長・消化器内科)加えて、宗教と医療が接続補完して時代のペインに立ち向かわねばならない。
14,未来精神病理学部:加藤敏学部長(東京都在住、自治医科大学名誉教授・小山富士見台病院名誉院長)AIロボット時代の未来の精神病理を予測し、準備しなければならない。
15,未来リハビリテーション学部:石野真輔学部長(十条武田リハビリテーション病院リハビリテーション科部長、医師、上智大学グリーフケア研究所非常勤講師)
16,未来神秘主義学部長:鶴岡賀雄学部長(東京大学名誉教授・宗教学・スペイン神秘主義・十字架のヨハネ・ベルクソン研究)
17,未来和歌文化創造学部長:津城寛文(筑波大学名誉教授・宗教学・公共宗教論・心霊研究・歌人)
18, 遊いすらーむ・世界認識のバランス学部長:水谷周(一般社団法人日本宗教信仰復興会議代表理事・日本ムスリム協会理事・イスラーム学)
19,鉄道聖地文化学部:中林宗一郎研究員(攻玉社中学校2年生・鉄道研究部)
事務局長:大野邦久・珠希
また、加えて、能登半島地震の支援のための特別プロジェクトを、「能登学プロジェクト」として立ち上げた。
小西賢吾京都大学人と社会の未来研究准教授(文化人類学)能登学プロジェクトリーダー
桑野萌金沢星稜大学准教授(キリスト教神学、身体哲学)能登学プロジェクトサブリーダー
藤井満朝日新聞元記者(ジャーナリスト、能登半島輪島支局勤務4年)
服部久美恵京都大学地球環境学堂研究員(法哲学、2024年4月1日より、東京大学大学院法学研究科研究員に移籍)
原章編集工房レイヴン代表(元創元社編集者)
電通関西支社和泉豊元新規プロジェクト部長(猿田彦神社おひらき祭り、法然忌850年記念事業など担当)
井川裕覚上智大学グリーフケア研究所特別研究員(関東臨床宗教師会長)
諌山憲司明治国際医療大学保健医療学部 救急救命学科教授(救急救命士、認定スピリチュアルケア師、臨床宗教師・関西臨床宗教師会会員)
大野邦久株式会社自然代表取締役(京都大学大学院理学研究科博士課程・霊長類研究所研究認定退学・珠希フローリスト、夫婦で京都面白大学事務局長)
*(当「能登学プロジェクト」立ち上げ時の初期チームは、呼びかけ人の鎌田東二を入れて合計11名)
以下、2024年3月7日に開催した第1回会議=「京都面白大学第94講」と第95講
京都面白大学第94講 能登会議Vol.1 小西賢吾京都大学人と社会の未来研究院准教授、桑野萌金沢星稜大学准教授、藤井満朝日新聞元記者(輪島支局4年)、服部久美恵京都大学地球環境学堂研究員、原章、和泉豊
動画リンク:https://youtu.be/u4gFisAJ8Yk
京都面白大学第95講 能登会議の前後表裏 2024年3月7日 @八起庵 裏人:藤井満朝日新聞元記者・ジャーナリスト・作家、和泉豊電通関西支社元部長・創造的新企画仕掛け人、鎌田東二
動画リンク:https://youtu.be/SYXfdlh9x-E
あの手この手を使って、「楽しい世直し」を実践していきましょうよ!
宗教と科学-その6 水谷周
本テーマを巡って数回に分けて書き進めたい。初めに全体の要点を記しておこう。
1.信仰は科学に攻められ、また物質主義に苛まれ、意気消沈となった。
2.近代知は科学的実証の不確かさが証明されて土台が揺さぶられた上に、進化論的合理主義もほころびを見せて沈下している。
3.人に天賦の二大才覚である信と知の双方とも各々再構築が不可避となっている。
4.信仰は行(祈り)の実践普及と信仰学の振興によって新たな息吹が吹き込める。
5.科学は「ひらめき」など精神面を取り込むことで幅を拡張し、人を要素還元で骸骨化する科学一神教を超克すること。
6.脱物質主義、脱進化論的合理主義の新たな哲学の要請。それは弱肉強食ではなく、自然の原理としての共生(仏教由来とは限らない)の覚醒であるが、そのための学術的にも詰めた議論と概念の定着が求められる。
6.新たな哲学を求めて
宗教と科学の在り方の問題と並んで、進化論的啓蒙主義と合理主義に代わる新たな哲学を創始するという課題も控えている。そこでの鍵となる概念の一つは競争ではなく、「共生」であろう。用語としての「共生」は、広く人々が語り始めて既に数十年経つ。その初めは、明治時代に生物学の用語として登場したのが、その後仏教者によって提唱された例がある。最近で最も「共生」を強く主張しているのは、黒川紀章氏である。彼は、「共生の思想」(徳間書店、1987年)、「共生の思想 増補改訂」(徳間書店、1991年)、「新・共生の思想」(徳間書店、1996年)と相次いで改訂版を出して、内容の充実を図っている。その間、フランス語や英語訳も出版された。また幾多の講演会、座談会などを精力的に実施し、その普及に努めてきたことが、一連の著作に明らかにされている。
黒川氏の貴重な提唱にしても、それ以降、出だしほどには勢いを得ていないと言って差し支えないだろう。それは曖昧だ、あるいは、仏教概念に根差した議論の成り立ちでは、他の宗教を基盤とする文化や社会からは支持が得にくい、といった批判の声も出てきた。この「共生」の発想は、仏教でいわれる「ともいき」と生物学的な共棲を基盤として、発展させたものだとしている。確かに、自然科学、人文科学、社会科学、あるいは彼の専門である建築学とすべての領域をカバーしている門構えであり、それは不可避的に曖昧さを伴うことになるのかも知れない。東西南北、あらゆる文明や文化に言及するという、日本の論者に普通は見られないような「知の巨人」流の様相でもある。
つまり大変に壮大な構想であるのは、間違いない。それは彼の大学以来の長年の蓄積を背景としている点、確かに傾聴に値する。また同時に同氏自身が認めるように、その主張は未だ成長過程の面もあるようだ。百科全書的になり焦点が絞りにくく、それは曖昧さに転じるとも思える。しかしそれは黒川氏の目標として、いずれ克服されれば、本来の貴重な貢献を果たせるのではないかと期待される。
そのためには、学術面の知的精査もさらに増強される方がいい。曖昧さの一端は、概念の検討を深堀りする言語分析などの手法は駆使せずに、基本的には経験的な叙述に終始していることから来ているのではないかと見られる。また「共生」を主張する以上は、何がそれではないのか―進化論的競争原理や二項対立思考など―を十分限定し示さないと、超克すべき相手自身にすでに曖昧さが伴うこととなる。それも同書の曖昧さに導いているのであろう。その際には、相手の姿は必ずしも敵対的な存在としてではなく、他者であり対置され、明確化のために対比されるものとして位置付けられるという静かな目で見ることが勧められる(注1)。
同時に黒川氏の「共生」の主張を巡っては、文化論的な観点に限らず、新たな発見や知見が増幅しており、自然科学からの寄与も側面支援している。その一例は「共生」こそが、森林植物成育の大原理であることが、樹木の根と栄養のやり取りをしている菌糸の役割が証明される中、判明したことが挙げられる。そして結局それが、地球上の生物全体の基盤であることも分かってきたのだ。そしてかつて弱肉強食を中軸とする進化論は、自然の一部のみを語るものとしてもはや過去のものとなっているのだ。このような微細な自然観察が、人類全体の自己認識と地球的規模の将来像をひっくり返すのであるから、何が起こるか分からないということになる。文字通りの、ちゃぶ台がえしということである。
因みに、弱肉強食の進化論を支えてきたは、ダーウィンが提示した理論に加えて、我欲追及を是認する資本主義体制がその理論を裏書するという両面の影響が効果を発揮してきたためである。その弱肉強食が今やより微細な自然観察によって否定されるところとなった。さらには、新たな公共財として我欲ではなく、「共生」を前面に押し出す社会体制が求められる時代に入ったとまとめられるだろう。
ちなみに資本主義の祖のようにいわれるアダム・スミスの『国富論』では、私欲のせめぎ合いがやがて「神の見えざる手によって」国富全体の増大に導くとして、私益中心主義が肯定されたように言われ、日本の教科書でもそのように教えられてきた。ところがそれは、極めて表面的な理解に過ぎなかったことも、この脈絡では明記せざるを得ない。
実際、スミスは一言も「神の」とは触れておらず、それは原語には見当たらない明治期の過剰な訳に他ならない代物である。それがそのまま使用され続けて今日に至っているのだから、信じられない結果である。彼が説いた全体像は、次の通りであった。自己の利益を最大化するには、他者の批判を招く行為に出て今後の取引に差し障ることは避けようとするという点の他、人間が本来的に持つ利他性は「正義の法」や「共感」(シンパシー)といった概念を通じて示されているということである(後者は特にスミス著『経済道徳論』)。
これが現代で言う価格の市場メカニズムとして理解された。つまりスミスは我欲の背景として人の「共感」を明示していたことが、置き去りにされてしまったのである。最大利益を追求するというのが実態ではあっても、そこにベースとして人間社会に一抹の血の通ったものを認める用語を持ち出していることは不当にも放置されたままとなったのだった。彼のいう利他性の源泉となる「共感」は今となっては「共生」志向であった点に、改めて光を当て直していいはずである。
信仰が実践(行)と学識(信仰学)に支えられ、科学が実証によりつつも人の感性や情動も対象とする幅の広い門構えとなる必要がある。また「共生」概念も深めつつ、弱肉強食の生活様式や物質主義を超えた哲学と思想を構築し、それを現実化する必要もある。まさにホモサピエンスの生き様が、問われているということになる(注2)。
脚注
1)仏教学者の椎尾弁匡(1971年没)が大正時代に提唱、2016年以来は彼が学長を務めていた東海学園大学から「共生文化研究」が出されて、梶尾研究という形で共生も課題となっている。梶尾氏は戦前に国粋主義を表明したということが一つの障害になっているにしても、もし「共生」が欧米から発信された思想ならばもっと迅速に日本でも市民権を獲得していたことだろうと思わざるを得ない。
2)なお本論の全容は、近刊予定の拙著『信と知の再構築』国書刊行会、を参照願いたい。
難解な著作から豊かな思想像を描き出す
書評:内田樹『レヴィナスの時間論――『時間と他者』を読む』新教出版社、2022年
(『福音と世界』第77巻12号、2022年12月、48−49ページ、を再掲します。) 島薗進
この書物の題はいかにも難しそうである。とっつきにくい書物ではないか。哲学に関心があるもの、倫理学や宗教学に関心があるもの、現代思想に関心があるもの、宗教思想に関心があるもの――そのいずれにとってもそう感じられるような題である。いや、エマニュエル・レヴィナスにある程度の親しみがある人もこの本は敬遠したいと思うかもしれない。
この書物の題はいかにも難しそうである。とっつきにくい書物ではないか。哲学に関心があるもの、倫理学や宗教学に関心があるもの、現代思想に関心があるもの、宗教思想に関心があるもの――そのいずれにとってもそう感じられるような題である。いや、エマニュエル・レヴィナスにある程度の親しみがある人もこの本は敬遠したいと思うかもしれない。
『時間と他者』は一九四六年から四七年にかけて四回にわたって行った講演をまとめたもので、日本語訳では本文がわずか九六ページである。その基本的命題は冒頭に、「この講演の目的は、時間と他者とは孤立した単独の主体にかかわることがらではなく、主体と他者の関係そのものであることを証明することにある」とある。この一文がそもそも難解である。
『レヴィナスの時間論』は『時間と他者』がいかに理解しにくい書物であるかということから書き始められており、テクストを順を追って読み込んでいき、その全体は四三〇ページに及ぶ。こう述べると読者はかなりの集中力を求められ、脱落してしまいそうに思うだろう。ところが、読み始めるとその叙述に引き込まれ、さくさくと読み進みたくなる、そのような叙述が続いていく。そして、レヴィナスという思想家の考え方や語り口の特徴がわかりやすく解きほぐされていき、わかったような気がしてくるのである。
しかも、著者は「わかったような気がしてくる」というような読み方でよいと教えてくれてもいる。ある人物の思想に親しむということは、繰り返し接しているうちにだんだん慣れてきて、その考え方が少しは身につくということだ。だから、わかりにくいからといってそこで諦めなくてよいという。
著者はレヴィナスの多くの著作の日本語訳を刊行し、その思想に習熟している。一九八七年に初めて会ったとき、この人を師と決めた(サロモン・マルカ『レヴィナスを読む』国文社、一九九六年、「訳者後書き・追記」)という著者は、その思想をまとめて解説するというような論じ方をしない。レヴィナスのテクストに親しみ、その考え方がわかってくるようになるのを導くという形で『時間と他者』の叙述を読み進め、解説していく。
フッサールやハイデガーに傾倒しながらどのようにそこから脱していったか、コジェーヴのヘーゲル理解をどう受け止めたか、他者の主題化という点で相通じるものをもつマルチン・ブーバーとの対比、モーリス・ブランショとの交遊から得たものは何か、タルムード的なユダヤ思想の伝統がどう引き継がれているか、そして何よりもホロコースト後を生きるフランスのユダヤ教徒として、いかにしてその信仰の核心を言葉にしていったのか――読者にはこうした観点からの解説が大いに助けになる。いずれもレヴィナスのテクストの味わいと結びつけつつ、日常的な思考に落とし込めるようなこなれた筆致で、しかしその思考の深みが読者なりに経験できるように論じられている。
『時間と他者』は初期の著作で、レヴィナスが自らの独自の思想を凝縮して語っているが故に難解でもある。だが、その後、『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で 或いは存在の彼方へ』などで雄弁に論じられていく思想の主要な諸モチーフがすでに全体としてそこにあるという。そこで、『時間と他者』を読み解くことで、これまで蓄えてきた著者らしいレヴィナス理解が絵巻物のように展開していくことになる。
しかし、そもそもレヴィナスの時間論は難解である。著者も最後まで、すっきりわかったとは言わない。理解しきれないところが残るという。どこがわかりにくいのかをかなりわかりやすく語ってくれている。これは読者にとってありがたいことである。
死は救いへの入り口などではない。神秘であるという。これもわかりにくいが、少しはわかる。他者の顔に向き合うことから生じる責任の超越性と対応するものだ。死を意識して生きることは終末という大団円に超越者を見ることではない。他方、日常はハイデガーが言うように凡庸なものに紛れ込み本来性を失うことではなく、むしろ日常のなかにこそ孤独を脱する他者性の経験がある。
レヴィナスの時間論の核心は何か。私も読後にすっきりわかったとは言えない。他者に「遅れて」生きることに時間の位相がある。それは自己に閉ざされてあることとしての孤独を超える経験と不可分だ。そこに希望も関わる。死に直面しても、ホロコーストのような事態にあってもなお希望はなくならない。それはまた、メシア待望の信仰とも関わる。ユダヤ教とキリスト教を対比しながら考えることが多い宗教研究者である私だが、このあたりは同時代の宗教性の独自の表現として学ぶところが多い。
これに関わって、著者は古代中国の故事成語に現れている時間意識についても触れている。このあたりもすっきりわかったとは言いにくいところだが、レヴィナスのわかりにくさをともに学んでいると感じられる叙述だ。さらに、死と向き合うことと父となることが関連づけられており、「豊穣性」という語があてられる。いかにもユダヤ教的な何かを感じるが、ここも正直、すっきりわかったとは言えない、と著者は述べている。
長い時間をかけてひとりの思想家の著作に親しみ、その生き方と切り離せない思想を解きほぐしていくことから、いかに多くが学べるのか。『時間と他者』という「小さな」書物から豊かな世界が繰り広げられている。哲学や倫理学や宗教学、あるいは西洋思想や現代思想に関心をもつ者だけではない。文学や社会学や文化人類学、また医学や生命科学、経済学や法学に関心をもつ者も、エマニュエル・レヴィナスの思考世界がどのようなものか、たっぷり教えてもらえる書物である。
東日本大震災と宗教性の新たな形 島薗進
『福音宣教』第75巻第9号、2021年10月、25−31ページ、を再掲します。
宗教者の支援活動が注目された東日本大震災
東日本大震災から三週間ほど経過した二〇一一年四月一日の河北新報には、仙台市若林区荒浜地区で僧侶五人が海岸の方向に向かい、津波で亡くなった人たちのために読経している姿の写真が掲載された。河北新報は仙台に本拠がある地方紙で、宮城県のみならず、東北では読者が多い新聞だ。その写真の僧侶たちが読経しているのは仙台空港に近いところだが、まだ遺体を探している中でのことである。日本のメディアは宗教を遠ざける、宗教が話題になるのはスキャンダルの時に限定されがちという傾向がある。ところが、この度はそれとは違う。読者が宗教に期待しているものがあるのを察知して、こうした写真が掲載されたのだ。河北新報はその後、宗教者の災害支援について連載記事を掲載し、河北新報編集局編『挽歌の宛先――祈りと震災』(公人の友社、二〇一六年)という書物を刊行するに至る。東日本大震災を経て、メディアが宗教の役割を見直している気配がある。
一九九五年の阪神淡路大震災の時は、「宗教は何をしているんだ」という厳しい批評が出されたり、宗教者の支援活動も一般のボランティアと同じで、それならしなくてもいいのではないかという議論もあったが、東日本大震災では大きく違った。世間の受けとめ方が違うと同時に宗教界も変わってきている。神戸に始まり、中越地震(二〇〇四年)、中越沖地震(二〇〇七年)、そして能登半島地震(二〇〇七年)と地震災害が重なり、仏教界も支援活動の経験を積んでいく。早くはシャンティ国際ボランティア会(曹洞宗ボランティア会)が一九八一年に成立している。だが、その「活動はまずは東南アジアなど、海外が中心だった。それが国内の支援をも課題とするようになってきた。彼らは多くの支援活動の経験を積んでいるが、国内にもそのノウハウが及ぶようになった。
二〇一一年の震災後の時期、曹洞宗青年会が作ったパンフレットを見ると、真ん中に「縁り添い」という題の詩が掲げてあった。宗教の側でメッセージをもって向こうに届けるということではなく、相手のニーズに近づいていく。「傾聴」とか「寄り添い」という言葉がその支援活動の姿勢をよく表すものになっていく。苦しんでいる人、辛い立場にたつ人たち、そういう人たちのその感じていることをともに感じ取るところから始めようという姿勢だ。ここは仏教団体なので「寄り添う」を「縁り添う」と書いている。「縁起」という仏教の根本理念を想起してのことだ。
「心の相談室」と宗教・宗派横断の連携
東日本大震災後にはこうした伝統仏教界の動きとともに、宗教界の横の連携が進んだのも新しいことだった。震災後数週間を経ずに、仙台では「心の相談室」が始まった。仙台の葬儀場では、沿岸地域から運ばれてくる方々の葬儀で大わらわだった。そこで、諸宗教の人がボランティアで控えていて、被災者に対応しようとしたことから始まったのが心の相談室だ。宮城県宗教法人連絡会という諸宗教の連携組織がある。こうした連携組織がある県とない県があるが、宮城県は全宗教的な組織の交流があり、それが役に立った。葬儀場にさまざまな方々がこられる。遺体も次々運ばれてきて荼毘に伏す。遺族がいても、その都度、旦那寺の宗教者を呼んでくるわけにいかない。こうした状況で諸宗派の人たち、キリスト教も天理教も協力した。この時期の宮城県宗教法人連絡協議会の会長は天理教の教会の方だった。最初は葬儀場で宗教、宗派を超えて助け合う、そこから始まって、弔いからグリーフケアまで対応することになる。
それも宗教の枠を超えて連携してやろうという考え方だ。オフィスを東北大学宗教学科に置くことになった。宗教学はさまざまな宗教にとって中立の立場なので、オフィスには都合がよかった。これまでも宗教は多くの支援活動をしてきた。にもかかわらず、一般社会から認知されない。行政は宗教者の支援を受け付けるのを躊躇する傾向があった。しかし、もし宗教、宗派を超えて連携していれば、行政も受け入れやすいし、市民も懸念をもたないで済むという考えがあった。
宗教者だけでなく、医療・心理・ケアの専門家、生活支援の専門家とも協力して被災者の求めているものに応答していく。そこで宗教心をもってもらうとか、自分たちの考えを理解してもらう必要はない。相手の求めるところに応じて、それが結果として宗教に対する信頼になり、宗教心を養うことにもなるという考え方だ。
カフェ・デ・モンクと岡部健医師
その中で大きな役割を果たしたのがカフェ・デ・モンク(Café de Monk)だ。金田諦應住職という栗原市の曹洞宗の僧侶が中心となって始められたものだ。看板、お茶、ケーキは栗原市のケーキ屋さんがつくったもの、それらを軽自動車に積んでカフェを開く。お寺の境内で、避難所とか仮設住宅にいって茶話会をやる。仏教の僧侶だけでなく、キリスト教の牧師やさまざまな宗教・宗派の方々が参加する。どのような立場であろうと被災者の支援にかかわりたいという方が参加する。
そして、避難所や仮設住宅でおばさんたちと話す。男性よりも女性の参加者が多い。「僧侶のカフェ」という意味だが、「カフェで文句を言う」、「皆が悶苦する」という意味だともいう。栗原の曹洞宗のお坊さんたちが「手のひら地蔵」を作った。手のひら地蔵はあちこちにあるようだが、この手のひら地蔵は滋賀県の信楽の方々が材料の土を出して、お坊さんたちが10センチくらいのお地蔵さんをたくさんつくる。いろんなイメージでつくっている。子どもの姿のものもあり、中にはバットをもった子どものお地蔵さまもある。もっていっておばさんたちに選んで名前をつけてもらう。多くの方々は、近くに津波で亡くなった方たちがいる。その人たちのことを思い出して、涙が流れ、語り出すようになる。仏教の教義に基づいて地蔵菩薩について説明するわけではない。死者の供養ということでもあり、親しみ深いお地蔵さんがそのきっかけになればいいということだ。
傾聴といってもルールがあるわけではなく、工夫しながら人の気持ちが通じあうようにするということだ。それを側面から応援したのは、岡部健という東北大学を出た医師だ。仙台の病院でガンの治療をやっていたのだが、病院での医療に失望して、医師が患者をコントロールするタイプの医療はどうも違うと在宅の死の看取りを仙台市でやるようになった。仙台周辺のがんの在宅の看取りはこの先生がやることが多かった。ある時、突然、家族にも黙って病院を辞め、古い美容室の空き家で開業を始めたのだ。
岡部健医師が遺したもの
その岡部医師が二〇〇九年、自ら末期がんがあることがわかった。それ以前から東北大学の宗教学や社会学、哲学の先生たちとタナトロジー(死生学)研究会というもので交流していた。東北大学には清水哲郎という長く医療と哲学を研究していた死生学のパイオニアの人もいた。清水氏は自分の奥さんが三〇歳くらいでガンになって、四〇年以上経つ今も健在だが、奥さんの世話をしながら医療のあり方を哲学的に考えてきた。そういう人文社会系の研究者らの協力もあって岡部氏はやがて臨床宗教師が必要だと唱えるようになった。
震災の時には、遊佐さんという看護師さんが被災した。一度逃げのだが、残してきた患者さんのことが心配で帰った。ちょうど津波がくるところで患者さんと家族二階に押しあげ、しかし遊佐さん本人は流されてしまったという。こうした経験を経て、岡部医師はガンで自らの死を強く意識しながら過ごし、二〇一二年秋に亡くなった。最後の一年間に奥野修司さんというジャーナリストが聞き書きをして本にしたのが、『看取り先生の遺言』(文藝春秋、二〇一三年)だ。
岡部医師の死を受けてシンポジウムがあり、追悼文集ができた。東北大学の人たちがまとめたものだ。岡部医師は「岡部村」という患者さんの集いの場を作っていた。患者さんたちが死を迎えようとしてベッドの上でだけ時を過ごすのは寂しい。誕生日とか、クリスマス、お花見とか、家にいるだけでなく、岡部村までくればいっしょに生きることを楽しむ場所をつくった。もともと岡部クリニックはチャプレンをもっていたが、どこにもそういう存在がなくてはならないと強く訴え、自らの経験を通して信じるようになった。この岡部医師の考えに共鳴する人々が集まって、二〇一六年に日本臨床宗教師会が設立された。
追悼シンポジウムの記録文集は、『医師・岡部健が最後に語ったこと』と題されている。岡部氏が早くから強調していたのは「お迎え現象」ということだ。多くのガン患者なり、死の近い人はお迎えを経験する。七五歳の女性は、「母ちゃんが迎えにくる。『よしこがそんなに辛いんだったらこっちさこい』。いってしまいそうになった。また別の日にはモンペ姿の母親が出てきて『おいで、おいで、苦しいのか、抱っこしてあげる、こっちにおいで』といった。しかし別の時には『おいで』といわず『まだ早い』と」。六八二人の患者の家族にアンケート調査をしたところ、お迎え体験があったという人が四二%あった。東北という土地柄もあるかもしれない。岡部医師はお迎えを経験した人は死を怖がる度合いが小さくなるという。
チャプレンと臨床宗教師
日本では一九八〇年代から死の看取りが注目されるようになってはいたが、東日本大震災が起こりケアにおけるスピリチュアルな次元の必要性がようやく広く認識されるようになった。この背景には欧米社会では病院にはチャプレンがあたりまえにいるのに、日本にはそれがないという事態がある。日本では仏教系の病院はないわけではないが、とても少ない。公立病院ではチャプレンがいるところはほとんどない。
しかし、少しずつ状況は変わりつつある。二〇〇九年に設立された上智大学のグリーフケア研究所では、人材養成講座を行っていて、死の看取りのスピリチュアルケアやグリーフケアを行うための教育を行なっている。その講座の実習の場の提供をお願いしていた病院の一つに亀田総合病院がある。これは千葉県鴨川の病院で経営上、成功している病院としてよく知られている。万事アメリカ風だが、亀田総合病院では霊安室が最上階にある。そしてそこにはチャプレンがいる。最初はキリスト教の方だったが、今は仏教系のチャプレンがいる。
将来的には仏教とかキリスト教とかの区別が、さほど問題にならなくなるのかもしれない。宗教的な経歴をもちケアの訓練を受けた人が、同じ資格をもって患者のケアにあたる。これが臨床宗教師だ。東北大学で臨床宗教師の養成にあたっている谷山洋三教授は、長岡西病院でビハーラ僧を実習した経験がある。仏教的なスピリチュアルケアの学びの場がないわけではない。そこでしばらく訓練を受け、アメリカ式のトレーニングも受けて東北大学で臨床宗教師養成の中心になってやっている真宗大谷派の僧籍をもつ人だ。
臨床宗教師の研修では四つのことに力を入れている。一つは「傾聴」と「スピリチュアルケア」で寄り添う姿勢を学ぶ。谷山氏は「ホーム」と「アウェイ」の関係として捉えている。自分の宗教の場に集まってくる人に教える宗教的ケアではなく、相手の生活している場にいって話を聴かせてもらう。その中で何ができるかを考えるのがスピリチュアルケアだという。
研修では多様な宗教の人が集まって毎日礼拝するが、日ごとに違う宗教のやり方でおつとめをする。それに諸宗教の人々が参加する。宗教対話、宗教協力、これが参加者には印象が大きいようだ。「曹洞宗ではこういう礼拝をするのか」と、ともに経験する。これが二つ目の課題だ。さらに宗教者以外の人たちとの連携も学ぶ。これが三つ目の課題となる。同時に宗教的ケアとスピリチュアルケアの違いを学ぶ。そのことでスピリチュアルケアを覚えるだけではなく、宗教的ケアもしっかりまた学び直すことになる。これが四つ目の課題だ。
宗教とスピリチュアリティの新たな捉え方
二〇〇七年に設立された日本スピリチュアルケア学会は、上智大学に事務局がある。全国にスピリチュアルケアの訓練をする一〇足らずの団体があり、それぞれが候補者を推薦し、学会でスピリチュアルケア師の資格認定をする。数年かけて協議して二〇一三年秋に初めて共通の認定資格を出した。現代は三百数十人が資格をもっている。スピリチュアルケア師は宗教者に限定されない。ケアや教育の職種の人やボランティアなどで医療やケアに関わってきた人がスピリチュアルケアについて学び、実習を経て資格を得ていく。
スピリチュアルケア師と臨床宗教師はそれぞれ独自の資格だが、相互に協力し合い、支え合う関係になっている。他方、両者とは独立して臨床仏教師の養成講座もある。全国青少年教化協議会臨床仏教研究所という、仏教系のあらゆる宗派が入っている団体がある。ここで臨床仏教師の資格を出している。こちらはこれまでに認定された人数は少ないが、仏教を前面に出したスピリチュアルケアを行おうとしている。
今、宗教の働く位置が変わってきている。宗教団体の活動に人々を引き入れるというのが従来の宗教活動の典型と見なされていた。しかし、むしろ人々の求めるものに応じて、宗教がその働きを見出していくという方向性が求められている。人間と環境のかかわりの中に宗教が占める場所を探し直している。本来はそういう場所があってしかるべきだったのだが、近代的な政教分離は宗教をある領域に限定する。所属する人の集団として宗教を理解するということだった。しかし、本来、人々の生活の中に宗教的な次元がある。これを個々人の資質や経験として捉える言葉がスピリチュアリティだ。それを指導する役割が宗教にある、こういう理解が、今、育ちつつある宗教とスピリチュアリティの新たな捉え方と言えるだろう。
「詩と神話」 鎌田東二 2023年4月12日記
わたしは、四国九州を自転車で横断・半周して宮崎間青島に立ち寄った時に衝撃を受けた17歳の時から、突然、詩を書き始めた。
以来、自分の根幹を成しているのが詩だと思って生きてきた。昨年3月末に上智大学を定年退職して、いっそうどんどん17歳の頃に戻っていっている感じがする。そして、この5年間で、7冊も詩集を出してしまったのである(ただし、6冊目と7冊目はこれからであるが……)。
1,『常世の時軸』(思潮社、2018年7月17日刊)*ちなみに、7月17日は、奈良県吉野郡天川村坪ノ内鎮座の天河大辨財天社の例大祭の日でその日に合わせて奉納出版。
2,『夢通分娩』(土曜美術社出版販売、2019年7月17日刊)
3,『狂天慟地』(土曜美術社出版販売、2019年9月1日刊)
4,『絶体絶命』(土曜美術社出版販売、2022年5月30日刊)
5,『開』(土曜美術社出版販売、2023年2月2日刊)*天河大辨財天社の特殊神事「鬼の宿」の日に合わせて奉納出版。
6,『悲嘆とケアの神話論―須佐之男と大国主』(春秋社、2023年5月3日刊予定)
7,『いのちの帰趨』(港の人、2023年6月か7月に刊行予定)
なぜ、このようなことになったのか?
じつは、そのことは、わたしの中での「宗教信仰復興」と「宗教信仰の覚醒」と大いに関係がある。
わたしは宗教を構成する基本三要素を、
① 神話(教えを含む)と、
② 儀礼(修業を含む)と、
③ 聖地(宗教施設を含む)
の三つだと考えてきたが、その「神話」の根幹が「詩」であるとの思いが日増しに募り、ついに、自分で「神話詩」を書き進めねば収まらなくなったというわけである。それがわたしの中でのもっとも核心的な「宗教信仰復興」であり、「宗教信仰の覚醒」で、その原点が自分のライフヒストリーの中では17歳の春の青島体験だったということになる。
だから、「詩」を書きながら、原点回帰し、かつ自分の中の宗教性を「復興」というか、「賦活」させていると思う。そんな矢先にステージⅣの大腸がん(盲腸癌・上行結腸癌)になって50センチほど上行結腸を切除する手術をして1ヶ月ほど入院していたが、2度にわたる入院と自宅待機の間に、上記6の『悲嘆とケアの神話論―須佐之男・大国主』(春秋社)と『いのちの帰趨』(私家版、7月に港の人から出版予定)を、自分でも驚くほどのスピードで、あっという間に書き上げた。
手術後乳糜腹水という合併症になって退院が遅れ、2週間の絶食療法の治療の間、自分を支えていたのは「信仰」というより「詩」である。もちろん、その「詩」はわたしの「信仰」と切り離せないものだが、呼吸するように「信仰」が生きた息吹となるためには「詩」が生れてくる必要があり、それが「絶食」の中での最大の「栄養」となって、わたしを支えてくれたのである。
そして、その絶食療法中の入院生活の間に、第五詩集『開』(土曜美術社出版販売、2023年2月2日刊)が出来上がって、妻が届けてくれた。表紙の対馬の和多都美神社の海中鳥居を目にした途端、どこか、扉が開くのを感じたが、これにより、入院生活がずいぶん楽になった。主治医の木下浩一先生(副院長・外科部長)とチャプレンの宮川裕美子牧師には詩集を献本し、いつどうなってもいいや、という覚悟も生まれた。そして、その後しばらくして退院できたのである。
入院中に出来た3つの詩集、がんが告知する前に書いていた第五詩集『開』と、がん告知後にまとめた第六詩集に当る『悲嘆とケアの神話論』と、第七詩集の『いのちの帰趨』で、わが「神話詩」はひとつの収まりを得て、後は野となれ山となれという「犬も歩けば棒に当たる~捕らぬ狸の皮算用」(=犬棒トラタヌ人生)を生きている。
*第五詩集『開』と第六詩集に当る『悲嘆とケアの神話論』の2冊について、一般社団法人日本宗教信仰復興会議の出版助成を受けたことを心から感謝申し上げたい。
宗教と科学-その5 水谷周
本テーマを巡って数回に分けて書き進めたい。初めに全体の要点を記しておこう。
1.信仰は科学に攻められ、また物質主義に苛まれ、意気消沈となった。
2.近代知は科学的実証の不確かさが証明されて土台が揺さぶられた上に、進化論的合理主義もほころびを見せて沈下している。
3.人に天賦の二大才覚である信と知の双方とも各々再構築が不可避となっている。
4.信仰は行(祈り)の実践普及と信仰学の振興によって新たな息吹が吹き込める。
5.科学は「ひらめき」など精神面を取り込むことで幅を拡張し、人を要素還元で骸骨化する科学一神教を超克すること。
6.脱物質主義、脱進化論的合理主義の新たな哲学の要請。それは弱肉強食ではなく、自然の原理としての共生(仏教由来とは限らない)の覚醒であるが、そのための学術的にも詰めた議論と概念の定着が求められる。
5,知の再構築について
実証に依拠する科学自身が、その実証能力に関する不確かさを、カオス理論などで証明してしまった格好である。さらには進化論的啓蒙主義や合理主義は、夙に、文化人類学やポストモダニズムやディコンストラクショニズムなどにより、追撃の矢が放たれている。これが知の再構築に際しての知の体系が全方位的に総攻撃を食らっている原風景であり、出発点である。
これは容易な事態ではない。そんな中、強く大きいことを追い求める思想ではなく、弱くて小さい存在にも十分な手当と配慮が行き届く社会の在り方が希求されているのである。真に平等であり、公正で誠実なあり方を支える思想である。またそれは弱肉強食の競争社会ではなく、「共生」を基底に据えた発想のものとなるであろう。もちろん近代知の転換を図るのに、それ一つに依拠するということではないだろう。ただそれが強固な起点となるということは間違いないと考えられる。
他方、科学に関するより直近の捉え方としては、次のことを再確認しておきたい。
宗教が人間を包括的に位置づけて意味を与えていたとすると、その包括性をバラバラに駆逐しながら科学は発展してきた。それはすべてを数値化し、分割し、分割された物事を因果関係で連携させるのである。ここで言う因果関係とは、仏教的な一切を含むものではなく、機械的で図式的な部分々々の関連付けである。このようなプロセスは、要素還元ともいわれるが、この手法は科学者にとっては、金科玉条の憲法のようなものとなってきた。
精神世界の研究や価値観の研究、あるいは価値観と合わせた研究といった、狭い科学観念からすると「危うい」テーマも取り上げることに、もっと正面から市民権を与えなければならないのではないか。医療の分野も、心と体の両面を測らなければならない。これまでは疑似科学のように扱われていた内容かも知れないが、そういったものも扱うという意味で、科学の幅を広げることを目指すということである。
具体的な研究テーマは今後考案され、見出されるとしても、当面は次のように科学者の危機に対する目覚めが宗教者によって訴えられている。
(1)道(宗教)はすべての人間の根源であり、原動力であるので、科学者も「道」の活(はたら)きから逃れることはできない。
(2)従って科学者が「道」の活きを拒否するならば、それは自己矛盾となる。「道」の活きが科学の根源的な原動力であるかた。
(3)科学者がもし「道」を否定するならば、人間失格となる。科学に固執しないで、人間全体の視野を見失わないこと。
(4)「道」が目指すところはすべての対立と矛盾を統一することであり、次いで「道」の究極的な目的は、神(仏)的人類・宇宙共同体の創造である。科学者と技術者の責任は重い(注1)。
「危うい」分野の研究により、人間の在り方に関する新たな展望が開けることが期待される。それは価値観にも新たな光を当てくれるだろう。従来のノーベル賞にこのような分野の業績を顕彰する部門を創設することも考えられる。人を骸骨化し、人類社会を分断化する従来の科学一神教は、その功罪が問われているのであり、それを称賛するだけでは、ノーベル賞の功罪も問われる結果となるのが論理である。次善の策としては、裏ノーベル賞といわれる、イグ・ノーベル賞を拡充することも考えられるかも知れない。
ここで提案したいのは、「ひらめき」を信仰学としても科学としても、一つの研究テーマとして取り上げて、その実験、検証、結果の共有を進めるということである。
信仰の真髄は直接的な霊的経験であるとすれば、それはいわば山の頂点であって、その裾野は相当広いということを改めて確認したい。中でもそれが劇的になるのは、死と直面して生存本能を刺激し稼働させるような事態だろう。そこでは生きるということへの動物的なまでのパトスが働いているのである。もちろんそのパトスはただ生き延びるだけではなく、正しく行きたい、あるいは善くありたいといった、強い求道のケースもあるだろう。その意味では、科学者が真実を追求し、芸術家が美を探求するのと、類似したパトスとも言うべきだろう。
こういったパトスは、人間としての情念であり情熱である。よく言われるように、真善美への絶えぬ強烈な憧れでもある。そしてこの情念がどこから湧くとも知れない力となり、それがひらめきを誘発し、やがて信仰を得たり、科学的真実を察知したり、独特の芸術美を達成することになるものと想定して差し支えないだろう。既に述べ来たったように、直観やひらめきの世界には、まだ全く分析のメスが入っていないので、これ以上のことは確言できる段階にはないのだ。
芸術や科学はさておき、宗教は本来、人々の尊敬の的であった。その理由は、遥か彼方に目標を定めて、人々に遠大な指針を提供してきたからである。その貴重な役割を明確に果たせる理由は、人間生存の基本である生命の維持と保存、つまり生存本能に訴える形で強く鋭い直観、すなわち「一瞬の稲妻」を究極の場面で稼働させてくれるからである。人は時々、死と直面した際に、そのような究極の才覚を発揮してきた。
キリスト教にもイスラームにも次の逸話が出てくる。預言者イブラーヒーム(アブラハム)が神にその息子を犠牲に付すことを命じられ、その命令に従順に従うことを父子が決意した瞬間に彼らは赦されて、代わりに羊を犠牲に付すこととなった。この最後の瀬戸際が、絶対主への帰依を誓うというひらめきの輝きを可能にしたのであった。イエスも十字架に付された瞬間に、殉死を受け入れることで、敵を許し、人々への限りなき愛を示すことができたのであった。釈迦も若い頃、飢えた母虎の前に餌食として身を挺したその時に、子虎に乳を与えることができたという一話は、「捨身餌虎」として知られている。
この研究のメリットの実例を挙げよう。平和を掲げた宗教対話が進められているが、これもある種の行き止まりに来ているのではないだろうか。他に方法がないから、仕方ないという諦めムードも見え隠れしている。互いに理解を深め合うというよりは、共通認識を対外的に表明することに力がそそがれがちではないだろうか。つまりそこでも外面だけが重視されがちになっているのかも知れない。そこで例えば、「ひらめき」に関する科学との共同研究は、新たな展開を与えるのではないかと期待されるところである。もちろんすべての人に全く同質、同量のひらめきという賜物が賦与されているわけではないので、その点は裏目に出ないような慎重さが求められる。
脚注
1)門脇佳吉「宗教者から科学者へ―危機意識の覚醒を訴える」、『宗教と科学 岩波講座』第1巻、119―147頁所収。
宗教と科学-その4 水谷周
本テーマを巡って数回に分けて書き進めたい。初めに全体の要点を記しておこう。
1.信仰は科学に攻められ、また物質主義に苛まれ、意気消沈となった。
2.近代知は科学的実証の不確かさが証明されて土台が揺さぶられた上に、進化論的合理主義もほころびを見せて沈下している。
3.人に天賦の二大才覚である信と知の双方とも各々再構築が不可避となっている。
4.信仰は行(祈り)の実践普及と信仰学の振興によって新たな息吹が吹き込める。
5.科学は「ひらめき」など精神面を取り込むことで幅を拡張し、人を要素還元で骸骨化する科学一神教を超克すること。
6.脱物質主義、脱進化論的合理主義の新たな哲学の要請。それは弱肉強食ではなく、自然の原理としての共生(仏教由来とは限らない)の覚醒であるが、そのための学術的にも詰めた議論と概念の定着が求められる。
4.信の再構築について
第一の方途は、祈ることである。それは要するに、絶対者への感謝と嘆願といえる。それを主との信者の内面的な対話と表現することもできる。祈る内容は、人それぞれで、一律なものは語れない。
祈る人間は、こうした人格的な神がとても近くにいると感じる。未開人は、神が目に見える場所にいると信じ、祈ろうとする際にはその場所に急いで向かうか、あるいはその場所の方へ手を差し伸べたり、眼差しを向けたりする。宗教的天才は、自身の心の静けさや深い魂の根底に神の現前を体験する。しかし、どの場合にも、神が現前するという畏怖と確信に満ちた意識こそが真の祈りと体験の基調音をなす。祈り手が呼び掛ける神は確かに超感覚的なのだが、敬虔なる者は、あたかも生きた人間がこの者の前に立つかのような、疑いを挟む余地のないほどの確かさとともに神の近さを感じるのだ(注1)。
それでは祈りにおいては、何が生起しているのだろうか。これも万人の差違があるのであろうが、気持ちとしては、お願いしてあるということからくる安堵感が挙げられる。場合によっては、義務を果たしたという達成感も湧いてくるだろう。そういった気持ちは、言い換えれば日頃学んだ事柄を復習し、確認するという知的な側面と連動もしてくる。そのように意識するかどうかは別だが、それは他でもない、信と知の相互承認に当たり、双方が肝胆相照らしている状態にあると言える。
ここで目を転じて、祈りの科学的な研究について振り返ることとしたい。それは遺伝子レベルの効果を計測するものである。
ちなみに祈りを上げることからも、免疫力活性の上昇が報告されている。人が祈ると特定の遺伝子を活性化させる、その遺伝子はウイルスの増殖を抑え感染した細胞を除去するので、修行僧たちは祈りや瞑想によって自然免疫系が全体に活性化されているというのである。さらには、修行によってある心理状態が作られるが、喜怒哀楽の「心」よりも深い、「魂」と呼ばれるものがこのメカニズムに関わっているかもしれないとされる。つまり分析のメスはやがて、「魂」にも分け入るということになっているのだ(注2)。
こうして行の経験的知見と純科学的研究の双方のにじり寄りが今後大いに期待される。それは互いに、肝胆相照らすことである。つまり互恵的なのである。
今一つの方途は、信仰学の研究である。信仰の世界は学問の対象にならないのか、あるいはそれを扱ってはいけないのか?これについて従来は、否定的な回答が与えられてきたと思われる。かつて日本の宗教学の大御所とされた東京大学名誉教授の岸本英夫氏は授業において、しきりに次のように説いていたという。
宗教学者は宗教をもってはならない。入信することにより、自分の宗教という
色眼鏡を通して他の宗教を見ることになるからである。そのため、宗教学のもつべき学としての真理の把握に不可欠な客観性が損なわれる。しかし、他方では、信仰をもたなければ、その宗教の秘奥はつかめない。これが宗教学者のディレンマである(注3)。
しかしこの碩学も、死に直面しては、相当な心境の変化を見せたのであった。
死とは、この世に別れを告げるときと考える場合には、もちろん、この世は存在する。すでに別れを告げた自分が、宇宙の霊にかえって、永遠の休息に入るだけである。私にとっては、すくなくとも、この考え方が、死に対する大きな転機になっている(注4)。
ここにおいては、「宇宙の霊」であるとか、「永遠の休息に入る」といった極めて宗教的な発想を取っているのである。死がかの大学者の気持ちの持ち方にも、不思議な転換をもたらしたと言えよう。
こうして、信仰学の樹立を呼び掛ける段階となった。その存立の根拠であり大目標は、宗教の真理解明であり、その知見の共有による、人類智の拡張である。それは人間存在の根源に戻る、さまざまな側面と真実を明らかにしてくれるであろう。
信については、あまりに外からしか見ない立場の観察が横行しているのが現状と言えよう。それを逆手に取って、例えば共同体の形成の仕方も信仰の表現として見直すことを提唱するのは、カナダ生まれのキャントウエル・スミスである。それは外からでも観察される儀礼やさまざまな宗教伝統全体を考察し直そうというのである(注5)。
さらに筆者水谷が信仰の在り方を考究するために、イスラーム信仰の諸相を体験論、倫理道徳論、信仰論、精神生活論の四分野に整理して示している。それに尽きるわけではないが、それを枠組みとして分類しながら探求のメスを入れていこうということである。そのために、つたないながら幾つかの書籍を自ら上梓してきたことも紹介した(注6)。
また米国のケン・ウィルバーは、信仰と言っても秘儀の部分も含めて大いに記録し情報化することで、互いに検証し、その結果を共有することで、「科学化」する方策を提唱している。そうすることにより、今考えるととても信憑性の薄い種々の神話や伝説部分は、これからの宗教には妥当しないとしてそぎ落とすことも勧めるのである(注7)。
広く深い信仰の全幅を一つの学問分野として樹立する手立ては今後も考案されるとしても、重要なことはそのような作業が学問として成立させられることである。その実績と認識を欠いたままでは、宗教信仰はどこまで行っても基本的には個人の揺れ動く心の問題だけにとどまるだろう。もちろんそれはそれで疑いなく存在価値があるのではあるが、その骨組みをしっかりさせて、対外抵抗力を付け加えようということである。信仰の再構築は、学問化することが一つの基盤を提供すると思われるのである。
以上、平時の祈りの強化と信仰学の振興という二つのアプローチによって、信仰の再構築がそのまま実現するのではない。そのための基軸になる切り口であるという趣旨だ。再構築全体を考えれば、宗教界の意気消沈の治癒、あるいは活性化も欠かせない。それは何といわれようが、宗教の固有の意義と人間にとっての必要性を学びなおす、言い換えれば修行のし直しである。物質主義という観念そのものの、哲学的な反駁も必要である。そういった総合力により、宗教信仰の再構築が真に地に着いたものとなるのは、ほとんど自明である。ここではそういった方途に関しては、備忘録として明記するに止める。
脚注
1)フリードリヒ・ハイラー『祈り』、国書刊行会、2018年。523頁。
2)村上和雄「祈りは遺伝子を「活性化」する」、産経新聞、2016年1月11日付、「正論」。
3)奥村一郎「死と祈り」、『宗教と科学、岩波講座』第7巻。
4)同掲書、奥村一郎「死と祈り」343頁。原出典は、岸本英夫『死を見つめる心』講談社、1973年。39頁。
5)ウィルフレッド・キャントウエル・スミス『宗教の意味と終極』、国書刊行会、2021年。
6)拙論「イスラーム学の新たな展望―「信仰緒論」研究の必要性―」。同論は、拙著『イスラーム信仰とその基礎概念』晃洋書房、2015年所収。また、拙著『イスラーム信仰概論』明石書店、2016年参照。
7)ケン・ウィルバー『科学と宗教』吉田豊訳、春秋社、2000年。
宗教と科学-その3 水谷周
本テーマを巡って数回に分けて書き進めたい。初めに全体の要点を記しておこう。
1.信仰は科学に攻められ、また物質主義に苛まれ、意気消沈となった。
2.近代知は科学的実証の不確かさが証明されて土台が揺さぶられた上に、進化論的合理主義もほころびを見せて沈下している。
3.人に天賦の二大才覚である信と知の双方とも各々再構築が不可避となっている。
4.信仰は行(祈り)の実践普及と信仰学の振興によって新たな息吹が吹き込める。
5.科学は「ひらめき」など精神面を取り込むことで幅を拡張し、人を要素還元で骸骨化する科学一神教を超克すること。
6.脱物質主義、脱進化論的合理主義の新たな哲学の要請。それは弱肉強食ではなく、自然の原理としての共生(仏教由来とは限らない)の覚醒であるが、そのための学術的にも詰めた議論と概念の定着が求められる。
科学と宗教は対立関係に置かれがちなので、それをもっと穏当でウィン・ウィンの対話に導けないかと考えるのは自然であろう。そこで宗教と科学の対話といったことが関心事となってきた。しかしここで筆者が提起したい疑問は、はたして科学と宗教は対話を必要とするのであろうか、ということである。というのは、宗教の根幹である人の命の大切さや広大で人の心の琴線に触れる慈悲、正義といった価値感覚は揺ぎないからである。またそれらは科学が教えてくれるものではないことも、あまりに明白である。両者に求められるのは対話ではなく、互いの優利さと、同時に互いに未完である実態を認め合うこと、すなわち相互承認ではないだろうか。そこから互恵のメリットも生まれてくる。
そこで宗教と科学は別の領域であるという点につき少し突っ込んで考えてみたい。
自然は合理性に基づいているので、それを人間の理知的な実証を積み重ねることでいずれ全体が解明されるだろうというのが、科学研究の大前提である。これは理解されやすいので、ここではそうではない方の、宗教的な領域に主として注目することとする。それは、宗教的な直観の世界ということになる。
直観という特別の漢字を使用しているところにすでに意味が込められているが、それは通常の直感ではないということを含意している。つまりそれは本質直観であり、感じるのではなく、観るという部類の働きを指している。第六感と言われる類でもない。それだと感であり、観ではない。
それは、芸術の審美眼のようなものである。絵画などの美をいくら論じても、それが心を揺さぶらせる感動を与えることはない。なぜならば、感動は美的直観に拠るからである。いくら説かれても、どうしてベートーベンの「第九交響曲」が人類の代表的な曲であり、同じ音楽家の「月光」はそうでないのか、など説明しようもない。
宗教的直観は実に多様に記録もされてきているので、引用するのには困らないだろう。中世ヨーロッパの一篤信家としてつとに有名な、フランスのローレンスは冬の枯れ木を見て、神の存在を確信したということである。その枯れ木は本当に寂しい姿であったのに、春には新緑と花々を付けることとなるというその不思議さに、心を奪われ、神の存在を直観したというのである。
こういった実例集が種々発刊されてきたということ自体、本当のところは宗教的直観が言語表現では尽くされることはなく、ましてや科学分析に不向きであることを示している。分かる人には分かるが、どうもピンとこない人には、馬耳東風でどこ吹く風に終わってしまう話である。もちろんそうではあっても、宗教的な才覚は万人に賦与されているはずだというのは、いずれの宗教においても重要な教義の一端とはなっている。だから、あきらめろという教義はないのであるが、実際は人の持つ才覚には強弱や濃淡があり、またそのような才覚の目が開かれるための契機に恵まれるかどうかは、何ら保証はない。その意味では、はっきり言ってしまえば、機会に恵まれない場合は諦めるということになるのであろう。
続いて頂点に達するための直観については、イスラームでは次のように言う。
人には理性的な力以外にもう一つの能力、あるいは才覚があると思われる。それは既知の諸事実から結論を導き出す、論理でなじみのある方法ではなく、別種の真実を認識するものである。その力は、啓示、直観、顕示などの能力が潜んでいるところである。そしてそれは既知の事実の計算や、結果の評価はしない。それは一瞬の稲妻のようなもので、それで諸事実を明らかにするのである。動物にもそのような能力があることは、アッラーが言われた。
以上が宗教的な直観に関する詳論である。他方理知的な働きも、大なり小なり、類似していることは否めない。誰しもが単純な算数は理解するとしても、教鞭を取り、あるいは研究に日夜励むような数学者になれるわけではない。そこには全く次元もレベルも異なる世界が展開しているからである。
科学的直感によるものは仮説であり、それはいずれ理論で積み上げられて、実験も経ることで新たな科学的知識として承認されて流布されることとなる。こういったプロセスは宗教的直観には不可欠ではない。単刀直入にインスピレーションで得られたものはそのままで、その人の新たな収穫であり、輝く宝となるのである。
そこでここらで全体を見渡して、諸点をまとめてみたい。
宗教も科学も、共通の酷似した起因は「一瞬の稲妻のような」ひらめきである。しかしそのままでは仮説に過ぎないため、科学はそれを論理的な実験・実証で証明・検証して知の世界を拡張する。他方宗教は、その内容を言動の両側面の実践で確かめ、確実・堅固な信を獲得・樹立することとなる。このような理解が成り立つこととなるのである。
ただしここで一つ、留保を加える必要がある。それは宗教と科学で共通の酷似した起因は、「一瞬の稲妻のような」ひらめきであるとした。他方その客観的な分析は存在せず、経験的なもの以上には、内実が詳細に分かっているわけではない。そこで酷似したひらめきとしては同一の用語で表現しつつ、宗教的直観と科学的直感とは別物としたのである。ひらめきの後のプロセスが異なっているのである。
要するに、「ひらめき」という天使のようでもあり魔物のようでもあるこの作用には、断定する根拠がないのが現状である。ちなみに、「ひらめき」の世界は、科学や宗教に限らず、芸術、スポーツ、政治・経済、そして人間活動のどの分野でも経験済みであるし、それらはどこにおいても大いに貴重で、その活動の成功のためには必須な要件となっている。それは多くの人により、語られ、体験されてきた事実である。しかもそれは当の本人の気づくこともあれば、そうでないこともあるという、独特の曖昧さの中に置かれている。これほど貴重な機能であるのに、経験的な表現以上には、何も解明されていないのは驚きである。
いずれにせよ宗教であれ、科学研究であれ、究極のところは通常の思考様式や推論を越えた作用によって、新局面を開き、それぞれの頂点に到達することになるということである。そしてスポーツは健康にいいし、それは宗教にとっても良いこと、他方宗教が精神の安定に役立つことをスポーツは認める。同様に、科学は客観的な正しい情報と掛け替えのない利便を提供し、それは宗教も歓迎する。他方宗教は固有の人生上の理解を提供し、心の安定剤となり、また巨視的な人類の向かうべき霊的な方向性を提示する、掛け替えのない輝く財宝であることを認める。これが相互承認である <続く>
宗教と科学-その2 水谷周
本テーマを巡って数回に分けて書き進めたい。初めに全体の要点を記しておこう。
・信仰は科学に攻められ、また物質主義に苛まれ、意気消沈となった。
・近代知は科学的実証の不確かさが証明されて土台が揺さぶられた上に、進化論的合理主義もほころびを見せて沈下している。
・人に天賦の二大才覚である信と知の双方とも、各々再構築が不可避となっている。
・信仰は、行(祈り)の実践普及と信仰学の振興によって新たな息吹が吹き込める。
・科学は「ひらめき」など精神面を取り込むことで幅を拡張し、人を要素還元で骸骨化する科学一神教を超克すること。
・脱物質主義、脱進化論的合理主義の新たな哲学の要請。それは弱肉強食ではなく、自然の原理としての共生(仏教由来とは限らない)の覚醒であるが、そのための学術的にも詰めた議論と概念の定着が求められる。
2.近代知の揺らぎ
①カオス理論による実証不確実性の証明
科学の基本である実証主義の限界に関する論点は早くは、18世紀のイギリスの哲学者によって提示されていた。ディヴィッド・ヒューム(1776年没)は経験論からして、たとえ1億回の実験によって同一の結果を得たとしても、1億1回目の結果を保障するものは何もないとしたのである。因果関係とは目に見える規則性に過ぎず、その背後にある必然性のようなものを想定する部分は幻想だと考えた。
そこへ実証主義の限界に関する考究の、現代版が登場したということになる。それによると、「相対論がニュートン・カント的な絶対的時間空間を否定し、量子力学が無限に精密な観測が原理的には可能だという仮定を否定した。カオス(混沌)は無限に近い精度で初期値を与えても、ニュートン・ラプラス(1827年没、フランスの数学者、物理法則で将来予測が可能と主張)的な予言が不可能であることを示した。」つまり方程式は同一でも、初期値に敏感な場合は、複雑で予測不可能なカオス的な結論があり得るという見解である。よく引用される比喩として、「北京で羽ばたいた一匹の蝶の影響で、ニューヨークに嵐が起こる」という言葉が挙げられる。時間の経過と議論の進展によって、実証という作業はますます高度化、複雑化し、それは科学者の自信をも「ぐらつかせているように感じている」というのである(注1)。
②脱近代主義と脱構築主義
誠実に合理的に時間を過ごせば、良い生活に導かれるという近代合理主義が一般であろう。しかしそれに疑問符を付す思潮が盛んに喧伝されてきた。これも大なり小なり、人々を「ぐらつかせているよう」な進展である。
ア.脱近代主義(ポストモダニズム)
合理主義、啓蒙主義といったことで特徴づけられる18世紀以降の近代を批判的に見て、それからの脱却を目標に、20世紀中葉から後半にかけて興隆してきた思潮である。強大であることを目標として弱小を軽視しがちなこと、それまでは正統派の立場や思想ともてはやされていたとしても、それは結局権力側・体制側のご都合主義の面が否定はできなかったことなどが批判されることとなる。この思潮は自然と広範な内容となり、一つの時代精神とも呼ばれることがあるほどである。例えば、『ポストモダニズムとは何か』という一書の目次を見てみると、そこには次のような分野の論考が掲げられている(注2)。哲学、批評理論・文化理論、政治、フェミニズム、ライフスタイル、科学・テクノロジー、建築、美術、映画、テレビ、文学、音楽、ポピュラー・カルチャーといった具合である。
ポストモダニズムは、近代主義的イデオロギーの拒絶、あるいは理性主義を批判し、政治的・経済的権力におけるイデオロギーの役割に大きな関心を払うことなどにその特徴が見出される。また従前の主張や価値体系を、政治的・歴史的・文化的脈絡の中での言説、あるいはハイアラキ―の産物とみなし、偶発的または社会的条件を付した形で把握することが多い。ポストモダニズムが批判する対象としては、道徳、真理、人間性、理性、科学、言語、社会進歩に関する普遍主義的観念などが含まれる。マルクス主義も例外ではない。
その論法の一例を見てみよう。
生活様式の面では、生産よりは消費に傾斜することが挙げられる。かつての工場地帯は、今やテーマパークに作り替えられたというケースである。また特定のファッションの奴隷ではなく、自らが選択する主体として行動する。服装の流行を追うのは、女性に加えて男性のたしなみのようになり、それは美容整形やボディ・ビルディングにも及んでいる。食料品もダイエット上の意識が強く、広告産業の影響はわれわれの生活のすべてに及んでいる。人の外見への意識が強まっていると言える。
宗教、科学の進歩、マルクス主義のような絶対的理論といった大きな物語は虚偽であったとして、もはや説得力は認めない立場でもある。メタ物語といわれる一連の従来の主義、主張は、受け入れられない。大帝国は文明の進歩の象徴というイメージではなく、そのような社会や文化が他のよりも優秀だという仮定は拒否される。
生産体制も多国籍企業が横行し、国際的な製造システムは当たり前となり、消費面でも世界のあらゆる食品が短期日でスーパーマーケットに並ぶか、テイクアウトの店で購入可能となった。休暇も近い、安い、短いものではなく、世界を股に掛ける話は珍しくない。時間と空間に関する意識は、まるで別世界のもののようになった。
イ.脱構築主義(ディコンストラクショニズム)
多くの人の常識を破ること自体を目指す思想である、ディコンストラクション(脱構築)が人心を騒がせないはずはない。この思潮を創始した、ジャック・デリダ(2004年没)はアルジェリア生まれのユダヤ系フランス人である。その思想は哲学のみではなく、文学、建築、演劇など多方面に影響を与えた。
脱構築哲学の中軸は、静止的な構造を前提とするプラトン以来の哲学的ドグマに対して、我々自身の哲学の営みそのものが、つねに古い構造を破壊し、新たな構造を生成しているとするものである。しかし脱構築の思想においては、脱構築という思想そのものもまた、常に脱構築され、常に新たな意味を獲得していくということを含意しており、各発言者やその機会により主張のポイントが異なる。また脱構築という概念は、いうまでもなく前に見たポストモダニズムと強く結びついている。
またプラトンでは音声言語(パロール)を前面に出しているようではあるが、それは文字言語(エクリチュール)を背後にしまい込んだ結果である、むしろ後者が重要である以上、その読み方は改められなければならないとした。デリダは、隠れた存在を引っ張り出す力のある文字言語を優先して重視しようとしたと言える。外部は内部の内部として見直される。
この言語上の議論は形を変えれば、プラトン以来ヨーロッパで伝統的だった階層的な二項対立の形而上学システムとなった。それは単なる対抗ではなく、優越や階層の対立となるものであった。この側面も脱構築によって批判される。脱構築によってデリダは、二項対立によって回収されえない他者(差延)へのまなざし (哲学)を呼び起こし、さらなる哲学の活性化を目指そうとした(注3)。
以上に対しては、非難も多く出された。それはニヒリズムである、無責任だ、危険思想だといった調子である。これはあたかも、ポストモダニズムに対する批判を想起させるものであった。
次いで、哲学や文学批判の世界以外を見てみよう。例えば、法律と正義の関係については、デリダはこのように述べている。
法の起源には無根拠な原暴力があるが、この力の一撃により構築される法は、脱構築可能である。しかし原暴力はそうではない。法はいつもそれとの関係において存在するが、それは法の向かう方向でもある。それが正義と称されている。
正義それ自体―もしそのようなものが現存するのであれば、それは法の外部あるいは法の彼方に現存するであろうが―は、脱構築可能でない。脱構築それ自体も、もしそのようなものが現存するのであれば、脱構築可能ではない。脱構築は正義なのである(注4)。
こうして80年代の米国では、脱構築の発想に基づく議論が多くの大学の法学部を席巻したのであった。それは法規制の裏に、常に潜む権力行為、すなわち中立性ではなく、政治性を読み込む視覚であった。
建築における脱構築主義についても見てみよう。我々が建築と考えるのは、人が住みやすいところという概念が優先するが、この概念はまさに近代主義の産物である。このとき機能性という合理主義が解体され、同時に行き詰まったモダニズムの閉塞感を打破するために、新しい感覚に依拠した観念が具体的に形として提示され、再構築されるのである。しかし建築の脱構築主義に対する批判には、単なる形態の戯れに過ぎないといったものがある。さらには、
磯崎新はザハ・ハディッド(著者水谷記:東京オリンピックの際、新国立競技場の当初のデザイン案を制作、2016年没)をコンペで発掘するなどこうした建築家の評価に大きく関わってきたが、デザインの目先の斬新さを競うことに対して懐疑的であり、阪神・淡路大震災以降は「破壊された建物を見た衝撃のあとでは、ディコンストラクションというファッションは終わったと言わざるを得ない」と批判している(注5)。<続く>
注
1 小田稔「実証主義とその限界」、『宗教と科学―岩波講座』第四巻『宗教と自然科学』、1992年。なおカオスに関する詳しい説明は以下の論文にある。一つは完全に数式で示されている。山口昌哉「フラクタルとカオス」、『同講座』第9巻『新しいコスモロジー』、1993年。もう一つは、物理学の立場からのものである。富田和久「カオスの意義」、『同講座』別巻1『「宗教と科学」基礎文献 日本篇』、1993年。一般に無秩序を扱う曖昧科学と呼ばれるものとしては、ファジィ理論、非線形解析、フラクタル幾何学、散逸構造論などが登場してきた。
2 『ポストモダニズムとは何か』スチュアート・シム編、松柏社、2002年。
3 高橋哲哉『デリダ 脱構築』講談社、1998年。
4 ジャック・デリダ、ジョン・カプート編『デリダとの対話 脱構築入門』法政大学出版局、2004年。
5 https://ja.wikipedia.org/wik2022年11月6日検索。
複雑性悲嘆と複雑性感謝(2022年12月28日) 鎌田東二
1,「複雑性悲嘆」から始まる
グリーフケアやスピリチュアルケアの領域に関わるようになって、キャサリン・シア(Katherine Shear)らによって提唱された「複雑性悲嘆」(complicated grief)という概念を知った。
この「複雑性悲嘆」は、深い喪失感による悲嘆反応が半年以上続いて生活に深刻な影響を及ぼす状態を指している。キャサリン・シアらはこの概念をピッツバーグ大学に在籍していた2005年に提唱した。彼女は、現在、コロンビア大学のThe Center for Complicated Grief(複雑性悲嘆センター)のセンター長を務めている。
グリーフケアやスピリチュアルケアの領域に関わるようになって、キャサリン・シア(Katherine Shear)らによって提唱された「複雑性悲嘆」(complicated grief)という概念を知った。
この「複雑性悲嘆」は、深い喪失感による悲嘆反応が半年以上続いて生活に深刻な影響を及ぼす状態を指している。キャサリン・シアらはこの概念をピッツバーグ大学に在籍していた2005年に提唱した。彼女は、現在、コロンビア大学のThe Center for Complicated Grief(複雑性悲嘆センター)のセンター長を務めている。
https://prolongedgrief.columbia.edu/professionals/complicated-grief-professionals/overview/
この「複雑性悲嘆」は、現在「遷延性悲嘆障害」(prolonged grief disorder)と呼ばれていて、メンタル面でのうつや自殺念慮、フィジカル面での高血圧や心疾患に影響するとされている。
喪失体験は誰にでも起こることであり、その悲しみの浅深や質はともあれ、誰しもが悲哀や悲嘆を体験する。病気にかかることも、喪失の一つである。それによって、痛みや苦しみが増し、いろいろなことができなくなる。関係性も変化せざるを得ない。
このような、病を得て死に至る過程は、キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間~死とその過程について』(鈴木晶訳、中公文庫、2001年、原著1969年)において、有名な5つの段階としてモデル化された。それは、①否認と孤立(Denial and Isolation)、②怒り(Anger)、③取引(Bargaining)、④抑うつ(Depression)、⑤受容(Acceptance)のプロセスを辿る。
その後、この悲しみの5段階説はさまざまな批判にさらされるが、重要なことは、「否認」から「受容」に至り得るという葛藤の過程があることを広く世に認識せしめた点だ。そして人がいかにして死の受容に至るのかが大きな課題となり、今日の「終活」騒ぎの中でも、この点は外せないキーポイントとなっている。
さて、私が研究領域としている「身心変容」あるいは「身心変容技法」という観点からすると、病がもたらす「身心変容」はフィジカル面では不可抗力と言えるが、同時にメンタル面やスピリチュアル面ではそれを一つの警告とか啓示とかメッセージとして受け止めて、違う生き方や在り方に変容させる可能性を持っている。
キューブラー・ロスは、たとえば、癌を宣告された患者が、死を運命として受け入れられず、検査結果を疑い、否定し、どうして自分がそんな病に罹ったのかと怒りを感じ、死の恐怖から逃れよう神仏に祈ったりすがったり、諸種の代替治療を試したり、普段しないような慈善行為の寄附をしてみたりする取引を重ね、それも役に立たないことを知ると抑うつ状態に陥って絶望的な気持ちになって何事にも無気力になるが、終には、死を避けられぬ運命として受け入れて安らぎを得る過程を鮮やかに描いて見せた。
これは、死の人間学的研究に大きな寄与と前進を与えるものだった。
その後、病をめぐるナラティブ研究が進み、長らくカリガリー大学教授を務めた医療社会学(medical sociology)のアーサー・W・フランクは、心臓発作とガンを体験することから病の語りについてのより踏み込んだ研究を展開し、大きな影響を与えた。フランクは、『傷ついた物語の語り手―身体・病い・倫理』(鈴木智之訳、ゆみる出版、2002年、原著1995年)の中で、「病いの語り」を、①「回復の語り(restitution narrative)」、②「 混沌の語り(chaos narrative)」、③「探求の語り(quest narrative)」に3類型化した。そして、健康を取り戻すという筋書きを持つ「回復の語り」と苦しみのさ中を生きている筋書きのない「反-語り(anti-narrative)」的な「混沌の語り」に対して、患者が苦しみに立ち向い、旅立ち/イニシエーション/帰還という 3 つの過程を辿るイニシエーション的な「英雄の旅」を「探求の語り」として理想化した。
このフランクの病の語りの3類型論、特に「探求の語り」は、宗教や宗教学に関心を持つ人たちには非常に共感しやすいものだが、しかし、そのような語りからこぼれ落ちる多様な声や身体を抑圧したり、隠蔽したり、低いものと見做したりする危険があり、さまざまな観点から批判されてきた。
そもそも、「探求の語り」はキューブラー・ロスのいう5段階の「受容」を踏まえて成り立つものだ。しかし、たとえばALSなど困難な病に直面した人たちはそう簡単には病を受容するなどできない。彼らからしてみれば、そんな物語は綺麗事で、一定の条件の下でしか成り立たない、いわば<病者貴族>の中でしか成立しない観念論的な上澄みにすぎない。
だが、宗教を学び、宗教的信仰を糧として生きてきた人間の中で、病の捉え方は神的な物語の色合いを帯びることがある。
たとえば、キューブラー・ロスが『死ぬ瞬間』の中で考察した第5段階の「受容」の章(第7章)において、彼女は悪性腫瘍(上行結腸癌)に見舞われた信仰心の篤い50代の歯科医のG氏とその夫人のことを取り上げている。
G氏はキューブラー・ロスとチャプレン(病院付き牧師)に語る。
「信仰という領域は運不運で割り切れるものではないと思うからです。救世主たる神を知るということは、運とは別の問題です。非常に深く、すばらしい経験です。いわば人生の浮き沈みにそなえること、私たちが遭遇する試練を覚悟することなのです。私たちはみんな、試練に、たとえば病に立ち向かわなくてはならない。でも神を知れば、その試練を受け容れる心の準備ができるのです。」(前掲214頁)
ここでは、宗教信仰が病に立ち向かうフランクの言う「英雄の旅」の「探求の語り」に近いものを生み出している。
それに対して、やはり信仰心の篤いメソジスト派のG夫人は、キューブラー・ロスに次のように打ち明けている。
「聖書を開くたびに、そこに並んだ言葉が私に何か語りかけてくるように感じられるのです。いまでは、主人の病気をきっかけに何か良いことがあるんじゃないかと思えるようになりました。それが私なりの受け止め方であり、病気に向き合う日々の活力の源にもなっているんです。主人は信仰の篤い人ですから、自分の病状を告知されたとき、私にこう尋ねました。「もし君があと四か月、長くても十四か月の命だなんて言われたら、どうする?」って。私ならすべてを神の御手に委ね、神にお任せするでしょう。もちろん、医学でできるだけのことは全部、主人のためにしてほしいと思いました。」(同220頁)
「人からは「どうしてそんなふうにふるまえるんですか」と尋ねられます。それは、私が人生の中で神の占める割合の大きさを理解し、いつもそれを感じてきたからです。私は看護教育を受けていますし、幸運なことに、敬虔なクリスチャンの方々にも出会うことができました。それに、いろいろな話を、ときには映画スターの話まで本で読んだり、人から聞いたりして来ました。信仰を持ち、神を信じれば、拠り所になるはずです。それに尽きると思いますし、幸せな結婚生活も、基盤は神への信仰になるのではないでしょうか。」(同229頁)
この章で、キューブラー・ロスは多くのページをG氏とG夫人とのインタビューの再現に割いている。そして、次のようにコメントしている。
「G夫人は突然のガン告知に対して近親者がどんな反応を示すかを的確に述べてくれた。彼女はまずショックに打ちのめされた。続いて、「まさか、そんなはずはない」としばしば否認した。そして、この混乱の中になんらかの意味を見出そうと努め、聖書の中に慰めを見つけたのだった。この家族は、つねに聖書から神のメッセージを読みとってきた。彼女が夫の死を受容していたのは明らかだが、一方で「日々研究は進んでいるのだ」という希望を持ち続け、奇跡が起こることを祈った。家族を襲った変化を機に、家族の宗教的体験は深まり、彼女自身も人に頼らず、自立して過ごすようになった。」(同229頁)
宗教信仰者にとって、またある人々にとっても、あらゆることが、ユーミン(荒井由実・松任谷由実)の「やさしさに包まれたなら」に歌われる「メッセージ」となるのだ。
小さい頃は 神様がいて
不思議に夢を かなえてくれた
優しい気持ちで 目覚めた朝は
大人になっても 奇跡は起こるよ
カーテンを開いて 静かな木漏れ日を
やさしさに包まれたなら きっと
目に映る全てのことは メッセージ
前掲アーサー・W・フランクは、「病の語り」の3類型の中でも「探求の物語」が重要だとした。これは「メッセージ」を受け取る物語的探求とも言い換えることができよう。病をきっかけとして新しい旅=探究が始まる。そして、自他をともに励まし、よりよく生きる道標となる。そしてそのようなイニシエーション的な探究の旅をフランクは「菩薩的英雄の物語」と言い、身体論のレベルから「コミュニカティブな身体」と類型化した。
フランクは、人が病という問題状況に陥った時に、身体は種々の抵抗(resistance)を示すと言う。そして、コントロール(統制)、欲望、他者との関わり、自己の身体との結びつきという4つの指標を設定して、①規律化された身体、②支配する身体、③鏡像的身体、④コミュニカティブな身体、の4身体類型をモデル化した。それらは、①統制に対して強い規律で反応するか、よりフレキシブルな偶発性や自由度を持つか、②欲望を産出するか、欠落させるか、③他者に開かれているか、閉じられているか、④自己の身体と結びついているか、分離しているか、で測定され、それに基づく座標化により、4身体類型を分類したのである。
こうして、フランクは、①偶発性を生命の基本的なものとして受け入れつつも、②欲望を産出しつづけて、しかも、③他者に開かれて同胞関係を結び、④自己と自己の身体がとも結びついているという身体のありようをもっとも理想的な「コミュニカティブな身体」と定位したのである。つまり、自己にも他者にも開かれた身体ないし身体行為としたのである。
かくしてフランクは、この「コミュニカティブな身体」を最高度にポジティブな身体行為的位相と定位したわけだ。
フランクのこの原著の刊行は、日本では阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件~オウム真理教事件のあった1995年である。「ボランティア元年」と言われたこの年から「心のケア」が社会的注目を集め、ケアの重要性が認識され始めた。その点で、1995年は、米国でも日本でもケア意識の大きな高まりと深化があった年と位置づけることができる。
2,「複雑性感謝」をめぐって
以上、キャサリン・シアやキューブラー・ロスやアーサー・W・フランクらの研究を通して、複雑性悲嘆や死の受容にどのように向き合うかというナラティブアプローチのいくつかを見てきた。そしてそれは、とても重要な課題ではあったが、私にとってはつい先月までは他人事の、というか、対象化された理論や事例であった。いかにそこにリアルな臨床事例的な記述があっても、それは他者性と対象性のベールに包まれていた。言わば、「対岸の火事」的な傍観者性がつきまとっていたのである。
しかし、今月、私は癌を宣告された。12月16日にCT検査でG氏と同様上行結腸癌が極めて濃厚でイレウス(腸閉塞)の懸念が強いと診断された。そこで19日に入院し、造影剤を注入したCT検査と内視鏡検査でも確認された。また、27日には、組織検査の結果が判明し、それによってもはっきりと確かめられた。
そして間もなく手術をしなければならなくなった。G氏は「四十五センチ」ほど上行結腸などを切ったが、私もほぼ同様の手術をすることになる。癌のステージは2~3と推定されているが、リンパ節への転移の疑いもあるので、その場合はステージ3となる。それがなければ、肝臓や肺や他の臓器への転移が見られないステージ2となる、という診断だ。すべての診断が確定するのは、手術後の生検が終わってからだ。
問題は、癌当事者となった自分が、今、キューブラー・ロスやアーサー・W・フランクらの研究にどのような見方をしているか、という点である。
まず、キューブラー・ロスの言う、①否認と孤立、②怒り、③取引、④抑うつ、⑤受容の5段階であるが、これらの5段階を順序だてて辿ることのない、いきなりの受容もあるのではないかという自覚と、「怒り」ではなく「感謝」と言うべき感情の生起もあるのではないかという気づきである。異論というほどではないが、違う見方や状況もあり得るのではないかということだ。もちろん、これは、この後の私自身の手術や術後経過の過程で変化していって、やはり、キューブラー・ロスの言うような否認も孤立も怒りも取引も抑うつもすべてあった、彼女の言うことが正しかった、ということになるかもしれない。
そのような変化・変貌を視野に入れておくとしても、しかし、告知2週間ほどの段階で、否認や孤立や怒りや取引や抑うつが全く感じられない、どうしたのかなと思うくらいノーテンキな自分がいるのを見て、ちょっと自分でも呆れているのだ。
そして、この時点で難しいのは、医師からの告知を自分自身に受け容れることより、このことを周りの他者、家族や友人にどのように伝えるのかだということを想い知らされた。告知を受け取るよりも、告知を伝える方がはるかに気を遣い、難しいのだ。たとえば、予定をキャンセルする過程、然り。どこまで、どのように伝えて、イベントを中止してもらうか、参加をキャンセルしてもらうか。じつに悩ましく、難しかった。そして今、このような記事を誰が読むともしれないコラム欄の「真空」にこのように書いている自分がいる。
主治医の意見を容れて、手術までのほとんどの予定はキャンセルした。そのためには、ある程度、相手が納得するような取り止め理由を告げなければならない。これが一番難しかった。
しかし、主治医の忠告を振り払って、警戒しつつも、告知の翌日の12月17日に上京して行った「絶体絶命」レコ発ライブの最終リハーサルと、翌18日の本番だけは全力を尽した。特に、「絶体絶命」レコ発ライブ本番は死ぬ気で予定の15曲すべてを歌い切った。
主治医がもっとも警戒していたのはイレウス(腸閉塞)になることであったが、その危険はあった。何があっても歌い切るのだと覚悟してステージに立ち、全身全霊で歌ったけれど、結果的にはイレウスを起こさなかった。歌やギター演奏の上手い下手を抜きにして、自分としては今でき得る最高のというか、一期一会のパフォーマンスができたという実感がある。その充溢感もある。そしてそれとともに、そのような「絶体絶命」に自己身体が直面した時に歌えたことをこの上ない喜びであり、それをバンド仲間(6人)や50名ほどの観客と共有できたことはかけがえのない至福でもあったと思える。
その日、ライブを終えて、新横浜から京都に戻る新幹線の中では、名古屋付近で電源事故の停電があったために、3時間近くもギターや石笛や横笛や法螺貝などの重たく大きな荷物を抱えたまま満員の自由席1号車で立ちっぱなしで過ごした。出発をさんざん待たされ、遅れに遅れて自宅に帰ったが、ライブを達成した喜びと高揚感は消えなかった。おそらくその時には相当量の脳内アドレナリンやエンドルフィンが分泌されていたのであろう。
もちろん、これから大腸を半分近く切るとどうなるのか不安はある。しかし、「身心変容技法」を研究してきた自分がこれからいったいどうなっていくのかということに対する何か興味津々という気持ちもある。自分事であるが、どうなるのか、不安と共に興味が湧いている。それだけでなく、おかしなことに、癌になって、嬉しい気持ちもあるのだ。
それは、こんな感じである。「からだクン、腸クン、今までありがとう。からだはしっかりからだをしてくれていたんだなあ~。ありがとね、腸クンも、ガン君も大変だったね。今までいろいろとごめんね。自分勝手なことばかりして。ごめん。そして、ありがとね。」という、そんな気持ちでお腹を撫でている。
いったいこれは、アーサー・W・フランクの言う「探求の語り」や「菩薩的英雄の物語」であり、「コミュニカティブな身体」と言えるのだろうか? その点を吟味すると、確かにこれは私流(鎌田東二流)の「探求の語り」であるとは言えるだろう。しかし、それは「菩薩的英雄の物語」と言えるほどヒロイックなものではない。これについては、宗教文化的なバイアスがかかっているように思う。
というのも、「観世音菩薩」を「至高のボランティア」ないし「究極のボランティア」とも「ケアの権化」とも考えてきた私は確かに「菩薩的物語」を理想化してきた。が、それは、自分にとって人生のお手本であって、自分がそのような存在であるという認識ではない。
また、子供の頃から、私の中では、『古事記』に描かれた、八岐大蛇を退治して「八雲立つ出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」と歌ったスサノヲノミコト(須佐之男命、『日本書紀』では素戔嗚尊)が英雄の荒魂相を代表していたが、今、大国玉神が「菩薩的英雄」の和魂・幸魂・奇魂相を代表している存在と見えている。が、それはあくまでも理想形であり、モデルであり、自分自身ではない。
このように見てくると、確かに宗教信仰を持つ人間は「探求の語り」を言い出しやすい特性や経験を持っているとは言えるかもしれないが、それはしかし、決して「菩薩的英雄の物語」とは言えない。そのようなヒロイズムではなく、むしろ、自分はこのように小さいのだ、でも小さくてもありがたいのだという、重たい荷物を背負って、たくさんの兄神たちに虐められるような小さき存在としての自覚と感謝である。小さくて弱いが故のありがたさと感謝。この自分の小ささや弱さの自覚がとても重要だと思っている。強い、ヒロイックな物語ではなく、遠藤周作が『沈黙』や『深い河』で描いたような人間の弱さとその中での愛や慈悲の行動への投企という生き方。
私は上智大学グリーフケア研究所に勤め出して、こんな言い方をするようになった。
からだはうそをつかない。
が、こころはうそをつく。
しかし、たましいはうそをつけない。
私は、1998年1月6日に酒を飲むのを止めた。空中右手上方からある声が聴こえて来て、その声のメッセージをよくよく考えて、その日から一番好きなものを断った。以来、25年。あと1週間で丸25年が経つ。
しかし、酒を止めてから自分が便秘体質であったということに気づき(酒を飲んでいる時には一度もそのようなことはなかった)、かなり長いこと便秘で苦しんだ。たぶん、その便秘で腸に相当なストレスを与えていたことも上行結腸癌になったことと関係があるのではないかと思っている。
いろんな方策を駆使して便秘対策を試みたが、決定打はなかった。が、ある時、食事療法に気づいて、徹底的に繊維質の豊富なものを主に食べるようになり、劇的に改善された。
以来、私は自分で「お殿(しり)様に仕える」家臣のような気持で毎日を過ごし、「おしりさま」にいいものを極力食するようになった。そして、毎朝の排便時には排便物を毎回確認し、手を合わせて拝んでいる。「ありがとうございます」と言って。
そのような日々を送ってきたので、腸クンにはいろいろと負担をかけてきたことと思う。それを文句も言わず、ずっと「受容」してきてくれた腸クンやからだクンには感謝しかない。だから、ガン君にすら、「ごめんね。ありがとね。」と言いたい気持ちなのである。
これは、「複雑性感謝」ではないかと思っている。
何が複雑なのか?
第一に、からだのさまざまな複雑な機構に対しての感謝。
第二に、そのようなからだに向き合う心や魂に対する感謝。
第三に、そのようなかただを与えてくれた親や育んでくれた環境などに対する感謝。
第四に、上記の第三に関連するが、たべものやのみものや、空気や風やもろもろの自然・環境・大自然に対する感謝。
第五に、このような感謝の気持ちを引き起こしてくれる大きなはたらきとちから(それを神とか仏とかと呼んできたようにおもう)に対する感謝。存在そのものに対する感謝。地球存在、宇宙存在。異次元存在への感謝などなど、もろもろ。
本年4月に逝去した社会学者の見田宗介(1937‐2022)は、『現代日本の精神構造』(弘文堂、1965年)「第二部 現代日本の精神状況」の中の「八 死者との対話―日本文化の前提とその可能性」において、日本人には「原恩」の思想があると指摘している。どうも、私にも見田宗介が言うような「原恩」感覚がどこかにセットされているようなのだ。見田は、日本文化に見られる「汎神論」においては、「日常的な生活や「ありのままの自然」がそのまま価値の彩りをもっていて、罪悪はむしろ局地的・一時的・表面的な「よごれ」にすぎない」と述べている。そして、その「生活における「地の部分」としての、日常性をいとおしみ、「さりげない」ことをよろこび、「なんでもないもの」に価値を見出す」ことが日本文化の特質として指摘できると言っている。
比叡山には、「草木国土悉皆成仏」と命題化される天台本覚思想が発達した。そのような観点からすれば、ガンも便もすべてが「成仏」ということになる。
比叡山の麓にある天台五大門跡寺院の一つの曼殊院門跡には、「菌塚」がある。発酵食品の開発などに使われてきた菌に対して、そのおかげを感謝し、何億何兆という数の実験に使われてきた「多種多様な菌様」に対して鎮魂供養をする「塚」である。そこでは、毎年5月に、欠かさず供養の儀式(法要)が行なわれている。これこそ、原恩教とも「ありがた教」(すべてが有難く思える)とも言える日本の<感謝教文化>の発露ではないだろうか。
だがしかし、ウクライナ戦争や国内外のクリスマス期の大雪吹雪災害などなどを見ても、天台本覚思想の「悉皆成仏」や「菌塚」どころか、「悉皆地獄」や「金摑み合戦」のような状況ではないかと見えてくる。
それでもなお、「悉皆成仏」と言える「原恩思想」や「ありがた教」の「複雑性感謝」は成り立つのか。
自分自身の「身心変容」を見据える過程でしかと確認してみたい。(2022年12月28日記)
宗教と科学-その1 水谷周
本テーマを巡って数回に分けて書き進めたい。初めに全体の要点を記しておこう。
・信仰は科学に攻められ、また物質主義に苛まれ、意気消沈となった。
・近代知は科学的実証の不確かさが証明されて土台が揺さぶられた上に、進化論的合理主義もほころびを見せて沈下している。
・人に天賦の二大才覚である信と知の双方とも、各々再構築が不可避となっている。
・信仰は、行(祈り)の実践普及と信仰学の振興によって新たな息吹が吹き込める。
・科学は「ひらめき」など精神面を取り込むことで幅を拡張し、人を要素還元で骸骨化する科学一神教を超克すること。
・脱物質主義、脱進化論的合理主義の新たな哲学の要請。それは弱肉強食ではなく、自然の原理としての共生(仏教由来とは限らない)の覚醒であるが、そのための学術的にも詰めた議論と概念の定着が求められる。
本テーマを巡って数回に分けて書き進めたい。初めに全体の要点を記しておこう。
・信仰は科学に攻められ、また物質主義に苛まれ、意気消沈となった。
・近代知は科学的実証の不確かさが証明されて土台が揺さぶられた上に、進化論的合理主義もほころびを見せて沈下している。
・人に天賦の二大才覚である信と知の双方とも、各々再構築が不可避となっている。
・信仰は、行(祈り)の実践普及と信仰学の振興によって新たな息吹が吹き込める。
・科学は「ひらめき」など精神面を取り込むことで幅を拡張し、人を要素還元で骸骨化する科学一神教を超克すること。
・脱物質主義、脱進化論的合理主義の新たな哲学の要請。それは弱肉強食ではなく、自然の原理としての共生(仏教由来とは限らない)の覚醒であるが、そのための学術的にも詰めた議論と概念の定着が求められる。
1.追い詰められる宗教
西欧中世ではキリスト教が社会を席巻していた。支配していたと言える。ところがそれに対して、神以外の法則があるとして、科学が発達し始めた。一度その勢いが始まると、それは山から雪だるまが転げ落ちるように、大きくなり早くなってしまった。この動向に並行して発達したのは、物質主義の潮流であり、それを支える資本主義制度であった。それらと共鳴したのは、弱肉強食を支柱とする進化論の普及であった。
四面楚歌となったのが宗教であるといえる。宗教界は自然と意気消沈である。それ自体もまた、宗教への障害となったといえるだろう。そのためにカトリック教では、世界的に蘇生の尽力(第2バチカン公会議など)が払われることとなった。四面楚歌の全体を描写するのはここでは紙面を超えるので、科学の肉薄した宗教攻めの様子を寸描することとする。
<宗教に迫る脳科学と進化生物学>
20世紀後半から、宇宙の起源から地球の誕生、そして地球上の生物進化、さらにはサル→猿人→原人、そして現世人類への進化過程も相当詳しく解明されてきた。また神経学や脳科学の進展、そして情報科学が言語学や心理学と結合して認知科学が発足して、また遺伝子学とも共同して、文化や宗教の発達についての生物学的基盤も明らかにされつつある(注1)。
①社会生物学から進化生物学へ
ダーウィンの自然選択説を基本にしつつ、集団遺伝学、系統分類学、古生物学、生物地理学、生態学などの成果を取り入れて生物の形質の進化を説明することが主流になった。彼の時代は遺伝子もDNAも発見されていなかったが、分子生物学の成果を取り入れてさらに新たに今日の進化生物学へと展開した(なお幾多の名称の学問が続々と誕生して、林立している状況である(注2))。
この分野内でも見解の対立はあるが、ここでは論争の中心となったエドワード・ウィルソン(2021年没)の説を中心に見る。ウィルソンは専門の蟻など社会性昆虫の研究のみならず、生物地理学や社会生物学など多くの分野で多くの業績を残したが、いわゆる「社会生物学論争」を引き起こした。ウィルソンは社会生物学を「あらゆる社会行動の生物学的基盤の体系的な研究」と定義し、「動物の行動を含むあらゆる形質が遺伝子の突然変異と自然選択 (淘汰)によって進化し、複雑な社会的行動も、生得的に、つまり遺伝的に組み込まれている」と結論づけた。定量化できない心的領域にまで自然選択論を広げた彼の理論は厳しい批判を受け、また「人種差別主義者」、「優生思想」、「ファシスト」と罵(ののし)られ、学会場に押しかけた批判者にコップの水をかけられるという騒ぎさえ起きたという。
②脳科学・認知科学の発展
認知科学による人間の言語や心の研究は、言語と脳との関係を初めて明確に提唱したノーム・チョムスキーから始まる。しかしその下地は、フェルディナンド・ソシュール(1913年没)による構造言語学にあった。ソシュールは、それまでの言語学が各地の言語の歴史的研究や系統学的研究(通時態)であったのに対し、諸言語の規則的な部分を共時態として比較研究し、言語がある音声と、そこに付与された意味とが恣意的に結合した記号の体系であることを明らかにした。そして、この言語のシステムとそれによって表現された文化システムが、物質世界とは独立した意味世界を形成し、物質世界はむしろ言語体系によって区分され、構造化され、意味づけられていくことを発見した。
ソシュールの段階では人間の脳の働きとは結びつけられていなかった。その後、「音素」や諸言語に共通な「文法」の発見を経て、チョムスキーが1957年に画期的な著作『文法の構造』を著し、言語能力は脳の働きに依存し、人間の認知システムは、進化によって発達した本能であるという言語生得説及び普遍文法説を提唱して、言語学と認知科学に一大革命を起こしたのである。
人間の心・精神の働きは脳の一千億を超える細胞とそれらを結ぶ神経細胞(ニューロン)が織りなす活動によって生みだされるものであること、その核にあるのは言語であり、第一に、それはソシュールの言うように、記号としての音声と、それに付与された意味の組み合わせという記号としての構造を持ち、第二に、一定の文法規則に従って、音声などの言語要素を並べることで、意味を表現し伝達できるシステムであるが、第三に、この言語能力、特に単語を並べる文法規則は、心の一部として人間に備わった生得的な能力であることなどが明らかになってきた。
進化生物学や人類学、先史考古学などの成果をも取り入れて、世界に遍在する宗教現象を人が進化の過程で形成した「心」の産物であり、宗教は超自然的現象ではなく、人間による「自然現象」として捉える点は、広く採用された。また脳科学や脳神経学による脳内現象として神秘体験を解明する研究も進められている。
③進化心理学による宗教論
社会生物学、進化生物学、脳科学、認知科学、そして進化心理学へと発達してきた人間の研究において、宗教はどのように捉えられるのか。例示すると、
・宗教は、近代主義者が重視した「信念」や「信仰」が核になって構成されているのではなく、音楽や踊り、儀礼など、音響や身体的運動を伴った人間の集団的運動である。
・宗教は過酷な環境を生き延びて、繁栄するために、現生人類の祖先が獲得していった、集団淘汰のための適応戦略の産物である。
・宗教は、他者、自然、宇宙を人格化し、その「意図」を読み取ることで、道徳的行為を促し、集団を結束させて、危険を回避し、集団で生きるために獲得した能力の産物である。
2001年に人間の全遺伝子構造を解析するヒトゲノム計画の第一段階が完了した。ある特定遺伝子上にダーウィン流自然選択(淘汰)の統計学的指紋、つまり痕跡をさがす技術も画期的に進歩し、心的機能に影響を与える言語障害を生じさせる遺伝子が自然選択によって形成される過程が明らかになったという。心はその延長上にあるものとして、実験的に検証することが可能になるかもしれない。
遺伝子は宗教心や宗教体験のあり方にも影響を与えている可能性もあり、幾人かの宗教的巨人の時代に世界的となる一神教が生まれたのも、生物学的適応の結果かもしれず、その遺伝子上の痕跡も発見できるかもしれないということになるという。どのような結果が報告されることになるのか、大半の期待は小さくないようだ(注3)。 <続く>
注
1 本項は主として次の文献に依拠した。中野毅「宗教の起源・再考―近年の進化生物学と脳科学の成果から」、『現代宗教2014』現代宗教研究所。
2 井上順考「宗教社会学・宗教心理学から認知宗教学への連続」、『ラーク便り』、国際宗教研究所、2022年、第95号頁。
3 21世紀に入ってさらに発達を見たのは、脳の神経活動を情報として取り出して、それを機械と直接接続する技術である。サイボーグの誕生であるが、将来的には機械の神が生まれるのであろうか。永沢哲『瞑想する脳科学』講談社、2011年。
「京都伝統文化の森推進協議会クラウドファンディングとライブの「絶体絶命」 鎌田東二(2022年12月26日)
メリークリスマス! と世界中でキリスト生誕のお祝いの言葉が発せられるまさにその時期、国内外でクリスマス大災害が起こっていた。ホワイトクリスマスというようなエレガントでロマンティックな積雪ではなく、尋常ではない急速な度外れの積雪量。これまで見たこともないようなドカ雪、デカ雪、フカ雪。米国でも日本でも。
このような異常な気象が次から次へと押し寄せてくる。2019年9月1日に、「みなさん 天気は死にました」という一行から始まる『狂天慟地』(土曜美術社出版販売)、「天は狂い、地は慟哭している」と題する詩集を出したが、まさに「絶体絶命」の危機の中にあると私は思っている。
そのような「危機」のありようを、2013年1月22日に同志社大学良心館で行なうシンポジウム「現代における宗教信仰復興を問う② 危機の時代における文化の継承と創造」の中で問いかけつつ、そこにおける文化の継承と創造について考察してみたい。
その一つの危機打開の試みの事例として、「京都伝統文化の森推進協議会」のクラウドファンディングのことも取り上げたい。
私は比較文明学会設立の1993年以来の会員であるが、11年前に東日本大震災が起きた後、2012年11月の比較文明学会第30回学術大会&地球システム・倫理学会第8回学術大会合同大会全体テーマ:「地球的危機と平安文明の創造」(個別テーマ「みやこと災害の文明論」)、2013年9月「災害と文明プロジェクト」に関わり、大会実行委員長やプロジェクト責任者を務めた。
21世紀に入り、気候変動による災害の激甚化に伴い、京都の「平安」を根底的に支えてきた京都三山の荒廃がいっそう深刻となってきた。そこで、2007年12月、宗教学者の山折哲雄氏(元国際日本文化研究センター所長)を中心に「京都伝統文化の森推進協議会」(https://kyoto-dentoubunkanomori.jp/)が設立された。この時、清水寺や青蓮院門跡や上賀茂神社など京都を代表する寺社、京都市、林野庁、祇園商店街、京都市民らが連携して京都三山を未来につなぐ活動を始め、10年余に及ぶ活動を、京都伝統文化の森推進協議会編『京都の森と文化』(ナカニシヤ出版、2020年3月30日刊)にまとめた(注1)。
ところが、その本を刊行して、いっそう活発に活動を展開していこうとした矢先に、コロナ感染拡大による緊急事態宣言が出て、以来、活動が停滞してしまった。
2022年の本年は、比叡山を始め、京都の紅葉はとても美しく、観光客も戻り、比叡山も多くの観光客が訪れているが、その比叡山も、実態は、日増しに崩落が進み、寝返り倒木もそのままで、荒廃が進んでいて、たいへん深刻な事態なのである。私は2006年10月以来、2022年12月26日現在までに826回比叡山に登拝しているので、この16年間の比叡山や東山の変化をつぶさに目撃してきた。そして、その具体的な観察体験から危機感をいっそう深めている。
そんな危機的な状態をどう打開するかという大きな問題を抱えているが、できることから始めようと、比叡山を北嶺、伏見稲荷大社のある稲荷山を南端とする東山、また鞍馬寺や貴船神社や花背などのある北山、また愛宕神社や高雄山神護寺のある西山を守る「京都伝統文化の森推進協議会」のクラウドファンディングを、<荒廃が進む京都三山の「東山」 1200年の文化育む「共生の森」に整備したい>と題して、京都新聞社のクラウドファンディング部門「THE KYOTO」で始めた。
12月26日現在、「京都伝統文化の森推進協議会」のクラウドファンディングを始め、現在以下の通り450万円あまりの支援を得ているので、がんばれば、新年には目標額500万に届く可能性が具体的に見えてきた。多くの方々のご支援をいただき、本当に有難く思っている。ぜひ今後ともご支援をいただきたい。
クラウドファンディングURL:https://the-kyoto.en-jine.com/projects/denbunnomori
以上は、身近な危機とその打開策についての事例を述べてみたが、もう一つの創造の側面について、近況報告的になるが、最近2つのことを行なった。
12月4日、35年ぶりに神道宗教学会第76回学術大会で、「痛みとケアの神としての大国主神」と題して研究発表した。「大国主神」については、出雲大社や神田神社などで、信仰的にも神学的にも考究されてきたが、私は伝統的な神学的把握を超えて、「痛みとケアの神」という現代的観点から大国主神を捉える視点を提示してみた。これについては、近々論文にまとめたい。
また、12月18日には、東京の碑文谷のライブハウス「APIA40」でサードアルバム「絶体絶命」レコ発ライブを行なった。全力を出し切り、爆裂した。そのライブパフォーマンス100分のすべてが、ライブハウスのAPIA40チャンネル配信の以下のYou tubeで無料で配信されている。以下のURLの14分前後から始まり、100分ほどのライブパフォーマンスである。「物狂い」カマタトウジをご確認いただきたい(注2)。
https://www.youtube.com/watch?v=3PJy5R_Tmjc
この12月18日のライブのことは、それを見た上智大学法科大学院生1年(彼は学部時代に私の授業2科目履修してくれていました)の萩原正大君が、「身心変容技法研究会」MLに投稿してくれたので、そのやり取り4通を「絶体絶命」サイトに次のように掲載した。https://kamatatojiztzm.amebaownd.com/posts/39973535
「絶体絶命」に危機をどう乗り越えていくか。私にとって、差し当たり、自分でできる方策は「地元の森を維持する活動」と「歌を歌う活動」の二種であった。それがどのような効果や意味を持つかはこれから確かめられるだろう。
かくして、冬至も一陽来復もクリスマスも過ぎ、いよいよ激動の2022年も終わろうとしている。2023年(日本では令和5年)、これからの3年はまさに正念場であると思っている。
12月26日 鎌田東二記
注
(1)京都伝統文化の森推進協議会編『京都の森と文化』(ナカニシヤ出版、2022年3月30日刊)は、次のような概要と執筆陣である。
<京都伝統文化の森推進協議会>
宗教学者・評論家の山折哲雄氏が設立発起人代表となり、平成19年(2007)に設立された。再生不能の危機に直面していた京都三山を、世界遺産の清水寺、青蓮院門跡、高台寺、祇園商店街振興組合、そして林野庁近畿中国森林管理局からの協力を得て、伝統に則った森づくりを行い、京都の森を蘇らせる事業を展開している。
執筆者
鎌田東二:京都伝統文化の森推進協議会会長。京都大学名誉教授。著作『言霊の思想』(青土社)他。
勝占保:林野庁近畿中国森林管理局京都大阪森林管理事務所長(当時)。
森本幸裕:公益財団法人 京都市都市緑化協会理事長。京都大学名誉教授。
原田憲一:元至誠館大学学長。元比較文明学会会長。著作:『地球について』(国際書院)他。
中川要之助:応用自然史研究室「人と大地」室長。著作:『人と暮らしと大地の科学』(法政出版)
高原光:京都府立大学大学院生命環境科学研究科教授(当時)。著作:『シリーズ現代の生態学2 地球環境変動の生態学』〔共著〕(共立出版)、他。
黒田慶子:神戸大学大学院農学研究科教授。
高田研一:NPO法人森林再生支援センター常務理事。
安藤信:公益財団法人阪本奨学会理事。元京都大学准教授。著作:『森林フィールドサイエンス』〔共著〕(朝倉書店)
高桑進:京都女子大学名誉教授。著作:『京都北山 京女の森』(ナカニシヤ出版)他。
丘眞奈美:合同会社京都ジャーナリズム歴史文化研究所代表。歴史作家。著作:『松尾大社~神秘と伝承~』(淡交社)他。
梶川敏夫:京都女子大学文学部非常勤講師。元京都市考古資料館館長。著作:『よみがえる古代京都の風景―復元イラストから見る古代の京都―』、他。
吉岡洋:京都大学こころの未来研究センター特定教授(当時)。
高橋義人:平安女学院大学国際観光学部特任教授。京都大学名誉教授。著作:『悪魔の神話学』(岩波書店)他。
広井良典:京都大学こころの未来研究センター教授。著作:『人口減少社会のデザイン』(東洋経済新報社)他。
田中和博:京都先端科学大学バイオ環境学部学部長。著作:『古都の森を守り活かす―モデルフォレスト京都』(編著、京都大学学術出版会)
○コラム
近藤高弘:陶芸・美術作家
大西宏志:京都造形芸術大学教授
○特別寄稿
大西真興:清水寺執事長。
山折哲雄:京都伝統文化の森推進協議会初代会長。宗教学者。
北村典生:祇園商店街振興組合理事長。いづ重主人
(2)ライブ曲順 (◎印、カマタがギターを弾く曲)
1.「神ながらたまちはへませ」
2.「ある日 道の真ん中で」
3.「南十字星」
4.「みなさん天気は死にました」 (第三詩集『狂天慟地』より)
5.「 フンドシ族ロック+世界フンドシ黙示録」
6.「探すために生きてきた」
7.「犬も歩けば棒に当たる」
8.「「北上」
9.「時代」
10.「夢にまで見た君ゆえに」
11.「メコン」 (第三詩集『狂天慟地』より)
◎12.「銀河鉄道の夜」
◎13.「巡礼」
アンコール曲2曲
◎1,「なんまいだー節」
◎2,「弁才天讃歌」
曲順コンセプト
今のウクライナ戦争など、世界情勢や気候変動による激烈な環境破壊のことなどを考え、『絶体絶命』を1曲目「神ながらたまちはへませ」の祈りから入り、最後13曲目「巡礼」の祈りで閉じる。
1=起:「神ながらたまちはへませ」から入り、次に悲しみに暮れる「悲嘆」を歌う「ある日 道の真ん中で」と「南十字星」を歌い、その3曲で、『絶体絶命』の中の悲嘆と祈りを表現する。
2=承:その後、「みなさん 天気は死にました」の詩の朗読で、その悲嘆の背後にある絶体絶命の状況を説明し、その中で物狂い状態で「フンドシ族ロック+世界フンドシ黙示録」を歌い、そこにストレートな「探すために生きてきた」を続け、「犬も歩けば棒に当たる」のロック調3曲を続けるという配列とする。
3=転:その後、東日本大震災の悲劇と悲哀と悲嘆と鎮魂を詠った「北上」で起承転結の「転」に入り、「時代」と「夢にまで見た君ゆえに」のバラード風の歌でまとめる。
4=結:最後の「結」として、「希望」の垣間見える「メコン」「銀河鉄道の夜」にして、最後は「祈りの言葉さえ知らない祈り」を捧げて終る。
政治と宗教について考える④ 鎌田東二(2022年9月29日)
以前(7月11日、8月1日)にも書いたように、私は今回の参議院選挙の結果に疑念を抱いている。もちろん、形式的には民主主義的な投票の手続きを踏んでいるので、法的には問題はない。
だが、ウクライナにおけるロシアが関与した住民投票に似ているとまでは言わないが、またそこまで操作的かつ露骨な権力行使ではないが、しかし、故意にか「忖度」的にか、山上徹也容疑者が関与したとされる「特定の宗教」という<特定の情報>が不明あるいは隠蔽されたまま選挙となり、安部元首相暗殺ないし殺害事件という悲劇的な事態への同情票によって自民党への票が伸びたと考えるからである。
山上徹也容疑者の母親は夫の自死などにより大変苦しい経験を持ったために救いの拠りどころを求めていたかもしれない。どのような経緯で統一教会に触れたのが分からないが、一般に、キリスト教は「原罪」と「贖罪」という「罪」の意識に基づく深い救済信仰を持っている。それは、罪責感や自己処罰感のある人の心に深くメッセージを内包している。それゆえ、キリスト=救世主の「贖罪」による「罪の赦し」の教えは、深く大きな救いの力を持つと言えよう。
統一教会は、『原理講論』で、神の世界創造、アダムとエバの堕落、キリストの贖罪と再臨の救世主による復帰を説いている。そのような、創造→堕落→復帰という救済サイクルの中に、統一教会は、さらに戦前の日本が仕出かした「大罪」を加えたと言える。
日本という国はまがりなりにも近代化に成功し、武力装備して韓国を侵略支配し、植民地統治するという大きな罪を犯した。日本は悪魔の誘惑に負けた「エバ国家」である。だから、日本人は韓国に「贖罪」的に奉仕しなければならないという思想と信仰は、自己処罰意識と社会的処罰意識が強い場合には強く作用するかもしれない。
統一教会の教義と信仰は、山上徹也容疑者の母親に納得と自己の生存理由の意味付けをもたらすものだったのだろうか。注意したいのは、「性」に対する特異で禁欲的な旧統一教会の教義や信仰である。
現行の日本国憲法では第20条で「信教の自由」が保障されている。
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
戦後日本では、特に戦前の大本などへの宗教弾圧のこともあって、「信教の自由」の原則が強固に保持されてきた面がある。だから、各宗教集団の「信仰内容」や「教義」については立ち入らないようにしてきたのではないだろうか。いわば、信仰のアジール空間が保障されいるとも言える。
しかし、時に、「信仰」や「教義」は人を呪縛することがある。そしてそれが、「こうしないと、これを守れないと地獄に堕ちるぞ」とか、「死んでも救われないぞ」と脅しにも似た説教や説得を受けると、それに従ってしまうことがある。オウム真理教事件においても、麻原彰晃はオウムを脱会したものは、あるいはオウムに敵対するものは「地獄に落ちるぞ」と脅していた。そのような事態を私は「霊的暴力」と言ってきた。そのような「霊的暴力」に曝されると、人は恐怖と不安でその「暴力」の支配から抜け出すことが難しくなる。
一般に、信仰心の篤い宗教教団の内部は閉塞的(自閉的)で自己集団の内閉的な思考と信仰と教義に閉じられている傾向が強いと言えるかもしれない。だから、信仰的に「開かれている」宗教教団が少ないのは明らかであろう。「八百万の神」を持つと言われる神社神道などは、教義らしい教義のないいわゆる「民族宗教」とされるので、近代の「天皇制神道」は別にして、それほど強い信仰的拘束力を持たない。神社神道は、したがって、信仰的に「ゆるい宗教」であると言える。そのような「ゆるさ」に惹かれる人もいるかもしれない。それが「おおらかさ」とか「寛容」と言えるかどうかには、注意深い吟味が必要であるが。
近年、宗教教団には入らないが、宗教性や霊性・スピリチュアリティに関心を持つ人が少なくない。先進国では、「not religious,but spiritual」な方向にシンパシーを抱く人が多くなっているとも言われている。
私は宗教が持つ世界観・人間観・自然観・社会観は人の心と行動をエンパワメントし、生きる力を強化してくれる力があると思うし、宗教には救済力も深い人生洞察力もあるので、生き方の指針や拠り所にもなると思っている。また、愛や慈悲や誠などの人間的価値、倫理道徳的価値もあるので、宗教の持つ人を力づけ再生せしめる力は今後も変わることがないとは思う。しかし、その一方で、宗教がもたらす負の側面について、注意と観察と洞察が必要な時代を迎えているとも思うのである。
「宗教を考える学校」について 鎌田東二
連日、自民党と世界平和統一家庭連合(旧世界基督教統一神霊協会=旧通称・統一教会)との関係が報道されている。テレビでも新聞でもインターネット記事でも。あふれかえるほど。
それらのいくつかに目を通しながら、次のような疑問と懸念が消えない。
それらのいくつかに目を通しながら、次のような疑問と懸念が消えない。
1,なぜ警察も大手報道各社も、参議院選挙まで後2日の段階で起こった安部晋三元首相殺害事件の容疑者について明確な発表や報道をしなかったのか? 特に、大手メディアは、山上徹也容疑者についての一定の情報を得ていたと推測されるが、そのことを報道しなかったのはなぜなのか?(選挙後の過熱した過剰とも言えるほどの報道を見ていると、いっそうそのアンバランスに疑念が沸いてくる) 選挙前にこの事件についての背景や安部元首相と旧統一教会との関係が一定程度はっきりと報道されていたとしたら、選挙結果はどうなっただろうか?
2,1995年の阪神大震災後に起こったいわゆる「オウム真理教事件」後、「宗教(教団)不信」や「宗教全般への警戒心」が異常に強くなったが、今事件後も、日本社会において、再度ないし再再度か、「宗教(教団)不信」や「宗教全般および宗教教団への誤解や決めつけや警戒心」が強くなっていくのではないかと心配している。
この2つのうち、2の懸念に関係する新聞記事を読んだ。
毎日新聞2022月8月12日付け記事には(注1)、カルトからの脱会支援活動をしている京都在住の浄土真宗の僧侶が、「霊感商法」や献金の強要や政治家との関わりは批判し検証されるべきであるが、信者個人の人格や旧統一教会以外の新宗教もまとめて批判したり否定するような言説に対しては「危うさ」を感じていることを表明している。同感である。また、本日、8月20日付けの朝日新聞記事では、自民党と旧統一教会との「支援」の関係が生々しく報じられている(注2)。
一般によく知られているように、日本の社会は同調圧力が強く、もともと「右にならえ」の傾向がある。
だからこそ、1の報道に対しても自制・自粛・抑制・同調圧力がはたらいたのではないかという疑念が消えないのだが、こうした場合に、冷静に「宗教」と「宗教の歴史」と「各宗教教団」の活動などを、ある面では切り離して、ある面では結び付けて、冷静に考察し、議論し、それぞれが自由に考え、判断できる環境を作る必要があるのではないかと思う。
そこで、振り返っておきたいのが、1996年の1年間、月1回開催した「宗教を考える学校」のことである。この「宗教を考える学校」は、負債で苦しむ奈良県吉野郡天川村坪ノ内鎮座の天河大辨財天社を支援する「天河曼陀羅」の「Vol,7」の企画として行なった1年間の講座である。
結局、これが「天河曼陀羅」の最後の企画の催しとなった。それを開催している途中やその後から、私は猿田彦神社の「おひらき祭り」(1996年以降)や「天河護摩壇野焼き講」(1997年2月3日以降毎年開催)や「神戸からの祈り」「東京おひらき祭り」(1998年)に関わり、それがひと段落ついて、「東京自由大学」の設立(1998年5月5日設立趣意書執筆、1999年2月20日設立シンポジウム「ゼロから始まる芸術と未来社会」開催)に参加していったのだった(注3)。
今、振り返っても、「宗教を考える学校」は興味深い講師が揃っていたと思う。当時私たちのできる最良の人選だった。開催趣旨文と講座の概要は以下の通りである。
天河曼陀羅Vol.7」「宗教を考える学校」1996年
A.趣旨
二十世紀末を迎えて、世界はいよいよ混迷の相を深くしている。その混迷の根っこには、資本主義・社会主義を問わず、近現代の産業文明の抱える構造的問題(自然と人間と文明の相克的構造)があり、それに加えて、宗教と民族・人種の問題が大きく横たわっている。これらの問題は複雑にして巨大で入り組んでいる。しかしこれへの解決なしに二十一世紀の未来はない。
「天河曼陀羅」では、一貫して固定化し権力化した宗教や宗教的思考に対して批判的意識を向け、「超宗教への水路」を追求してきたが、この道もまたけっして生やさしいものではなく、さまざまな歴史的屈折や困難を抱えている。宗教を超えるとは、宗教性の根底に降りてゆくことであり、そこで宗教性を支える霊性の岩盤に向き合うことであると私たちは考えているが、そうした「超宗教への水路」をより確かなものにするためにも、宗教に対して研究的にも実践的にも深くかかわってきた講師を迎えて、一年かけてじっくりと宗教にまつわる諸問題に取り組んでみたい。そして、宗教と文明の未来に向けての探究と供え(備え)を始めたい。
ただし、各講師はそれぞれ独自の視点とアプローチを持っており、必ずしも「天河曼陀羅」の根本姿勢と同調するものではない。むしろ、異質な視点や他者性に対する開かれを通してこそ「超宗教への水路」をより明確に自己意識化し、相対化しつつ、その可能性を掘り下げることができると考える。なお、この講座は、私たちの探究と学びの姿勢をはっきりさせるために「学校」という呼称をあえて用い、各講師には事情の許す限り、自分の講座以外の講座にも出席・参加していただき、共に学び共に考え共に探究していきたいと思っている。基本的には、たとえ立場も思想も異なっていたとしても、講師も受講者も共に学びの徒であると認識している。
B.講師・テーマ・年間スケジュール
1月20日 鎌田東二(武蔵丘短期大学助教授)「今、なぜ、“宗教を考える学校”をつくるのかー宗教・霊性・意識の未来」
2月10日 柿坂神酒之祐(天河大辨財天社宮司)「超宗教と神道と天河の精神―宗教意識は変化しているか?」
3月16日 島薗進(東京大学教授)「宗教と社会―新宗教および新霊性運動の輪郭と問題点」
4月13日 斎藤文一(新潟大学名誉教授)「宮沢賢治における宗教・芸術・科学」 【故人】
5月18日 荒木美智雄(筑波大学教授)「宗教と宗教学―宗教学の成立と展開と現代の宗教状況」&総括ディスカッションⅠ 【故人】
6月15日 玉城康四郎(東京大学名誉教授)「宗教体験の本質と全人格的思惟」 【故人】
7月20日 深澤英隆(一橋大学助教授)「神秘主義の諸問題とイロニーー宗教的形而上学批判」
8月10日 戸田日晨(日蓮宗大荒行堂遠壽院傳師・住職)「宗教と修行―修行者がぶつかる諸問題」、ま北きこり(冨士講社ま北再興者・前プラサード書店店主)「富士講の新たなる再生に向けて」&総括ディスカッションⅡ
9月14日 津村喬(関西気功協会代表)「ホリスティック宗教と気の世界観」 【故人】
10月19日 梅原伸太郎(本山人間科学大学院講師・日本礼楽研究センター所長)「宗教と他界観―霊学とスピリチュアリズムの観点から」 【故人】
11月16日 中村桂子(生命誌研究館前館長・早稲田大学教授)「生きることの驚きと謎」
12月14日 横尾龍彦(画家)「宗教体験と芸術体験」&総括ディスカッションⅢ 【故人】
この時、関わってくれたた13人の講師の内、約半数の6名が故人となった。そこで問われたことを再度思い起こしつつ、「宗教を考える学校」第2弾が一般社団法人宗教信仰復興会議とNPO法人東京自由大学との共催で出来ないものかと考えている。宗教研究者、宗教者、ジャーナリスト、弁護士、政治家、経済学者などなどの専門家を迎えて、自由に議論し、考えていく場の形成。
今回の事件を通して、もう1度「宗教を考える学校」のような集いと機会が必要だと強く思うものである。(2022年8月20日記)
注
(1)毎日新聞 2022月8月12日付け記事には、<安倍晋三元首相が銃撃され死亡した事件をきっかけに、報道やインターネットでは「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」への批判があふれている。逮捕された山上徹也容疑者(41)が動機として安倍氏と教団との関わりを挙げたとされるためだ。「霊感商法」や献金の強要などの問題や政治家との関わりは批判、検証されるべきだが、信者個人の人格や、旧統一教会以外の新宗教もまとめて否定するような言説も見られる。「危うさを感じます」。カルトからの脱会支援活動を続けている真宗大谷派の僧侶、瓜生崇さん(48)はそんな懸念を口にする。「長期的に見て、良い方向には進んでいない」。どういうことか、話を聞かせてもらった。
・「正しさ」に苦しむ現役信者
「旧統一教会の信者はいま、すごく苦しんでいるはずです」。知人に現役信者が何人かいるという瓜生さんは、複雑な心境を明かす。「旧統一教会が無理な献金の要求など社会的な問題を起こしてきたのは間違いなく、政治との関わりも含めきちんと批判すべきです」。信仰の核心部分を隠し詐欺的な勧誘をしてきたことも、カルトの重大な特徴として問題視する。ただ、信者にも層があり、こうした被害に遭わずに地道に信仰活動を続ける人もいると指摘する。「一斉にバッシングを浴び、信仰そのものが悪であるように言われることはつらいと思います」(以下省略)>と掲載されている。
(2)朝日新聞2022年8月22日付け朝刊記事<教団側支援 陣営「外で言うな」自民前議員ら旧統一教会側との関係証言
<2016年の参院選で「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」の友好団体から支援を受けた自民党の前参院議員の宮島喜文氏(71)が朝日新聞の取材に応じ、その経緯や支援の実態を語った。今夏の参院選前にかわした安倍晋三元首相とのやりとりの内容も証言した。そこから浮かぶのは、選挙を通じた自民と教団側との深い結びつきだ。
・16年参院選
安部氏の銃撃事件後、宮島氏は複数回取材に応じた。宮島氏陣営の複数の幹部らも別に取材に応じた。
宮島氏は、12年から日本臨床衛生検査技師会(日臨技、東京都)の会長を務め、16年の参院選で初当選。改選を迎えた今夏の参院選では教団側からの支持が得られなかったことなどを理由に、すでに得ていた党の公認を辞退して立候補を取りやめた。
16年参院選への立候補は、伊達忠一・元参院議長(83)から「選挙の1年ほど前に打診を受けた」。伊達氏は臨床検査技師出身で、当時の役職は参院幹事長。派閥は清和会(現安部派)に所属していた。
宮島氏の陣営は当時、日臨技の政治団体とほかの関係団体などで、計10万票を得たいと思っていた。自民が比例で18議席を得た13年の参院選では、自民候補の当選ラインは7万7千票、12議席だった10年は10万票だった。この10年参院選では、12番目に滑り込んだのが臨床検査技師出身の候補だった。
・「もう引けない」陣営幹部進言
「正直、当選できる自信はなかった」。宮島氏はそう振り返る。当選を確かなものにするために、さらなる上積みがひつようだった。そこで加わったのが、教団側からの支援だったという。
宮島氏は公示の直前に伊達氏から「党の支援団体の票をもらってきたと言われた」。団体名は「世界平和連合」と聞いた。陣営幹部から旧統一教会と関係があると教えられ、戸惑ったという。平和連合は教団の友好団体。陣営幹部は宮島氏に「上がつけてくれた団体ですから、もうあとには引けません」と進言した。
宮島氏は伊達氏の指示で都内の関連施設で平和連合幹部にあいさつしたという。宮島氏らは「教団側の支援が公になると危うい」と考え、「一部の陣営幹部のみが知るトップシークレット」と位置づけた。宮島氏は陣営幹部から「外でおおっぴらに言っちゃいけません」と忠告された。
宮島氏自身は、選挙で平和連合と直接やりとりすることはほとんどなかった。陣営幹部と平和連合の担当者が窓口となり、公示直前に国会近くのホテルで選挙協力について協議した。(以下省略、一面トップ記事)
(3)1992年から始まった「天河曼陀羅」の活動については、鎌田東二・津村喬編『天川曼陀羅―超宗教への水路』(春秋社、1994年7月刊)、猿田彦神社の「おひらき祭り」については、鎌田東二編『謎のサルタヒコ』(創元社、1997年10月刊)、「神戸からの祈り」については、鎌田東二・喜納昌吉『霊性のネットワーク』(青弓社、1999年9月刊)、NPO法人東京自由大学については、鎌田東二『世直しの思想』(春秋社、2016年2月刊)第五章を参照されたい。
「国葬」論議について 水谷周
安倍元首相の国葬を巡っては、盆休み明けと共に議論が再燃するのであろう。このタイミングで一考しておきたい。また宗教界の役割に関しても、記しておきたい。
1.法的な根拠に関しては、岸田首相は記者会見(7月14日)で次のように述べた。「国葬儀、いわゆる国葬についてですが、これは、費用負担については国の儀式として実施するものであり、その全額が国費による支弁となるものであると考えています。そして、国会の審議等が必要なのかという質問につきましては、国の儀式を内閣が行うことについては、平成13年1月6日施行の内閣府設置法において、内閣府の所掌事務として、国の儀式に関する事務に関すること、これが明記されています。よって、国の儀式として行う国葬儀については、閣議決定を根拠として、行政が国を代表して行い得るものであると考えます。これにつきましては、内閣法制局ともしっかり調整をした上で判断しているところです。こうした形で、閣議決定を根拠として国葬儀を行うことができると政府としては判断をしております。」
2.しかし同法は、そもそも安倍氏の葬儀が「国の儀式」に当たるかどうかの判断基準を示しているものではない。戦前は勅令の「国葬令」があり、国葬の対象を皇族や「国家に偉功のある者」として国民は喪に服すよう求めた。今次の国葬とする決定と、その実施の所掌事務が内閣府にあることとは別問題であるというくらいの読解力は、通常の義務教育を受けていれば誰でも持ち合わせているはずである。そのギャップを大股に乗り越える発言振りなのは、安倍流を想起させる。またそのような解釈を準備した内閣法制局も、冷や汗ものであったに違いない(注1)。
3.以上のような法解釈と決定を覆すことは、議論が延々と続くことを予想すれば簡単ではない。ところが問題の本質は、そのような法論議ではなく、安倍元首相がかかる重要な国家儀礼の対象なのかどうかという点である。岸田内閣はその回答としては、イエスであるから国葬を決定した。他方、ノーと言う回答も十分成り立つケースだから百家争鳴という事態が生じているのである。本来国葬というものは、このような百家争鳴の事態を招かないほどに、誰の目にも明らかなケースであろう。言い換えれば、明らかに時代を画す国難を乗り越えさせる業績があったという場合である。「国家に偉功のある者」ということになるが、安倍元首相にそのような一大業績があったとすべきなのであろうか。周知のとおり、多くの世論調査では、反対が賛成を上回っているのである。
4.どのように偉大な業績あったとしても、どうもそれが説得的には示しにくいとすれば、その原因は業績に対するマイナスの遺産もあるからだと考えるのが、常識的であろう。そのマイナス面として種々指摘されるとしても、筆者にはその最大のものは他でもない、安倍氏の権力の私物化疑惑である、国民は偉大な業績があったとしても、それは裏で権力を不公正に構築していたからであると鋭敏に感じていると見られるのである。これはルサンチマン(遺恨)に近い感情である。隠ぺい、恣意的な法解釈、連発される国会での不透明発言などに、多くの人はまたか、という感情を持たせられ過ぎたのである。それは最早、反感を通り過ぎて、嫌気がさすというレベルであった。
5.以上のマイナス面の公正な評価による清掃作業をしないままに、いわばほうかむりしたままで、国の内外において次の政権運営に浮揚力を得たいとする意図が、国葬決定を急がせたのであろう。それは慌てて泥縄方式のアベノマスク配付を決定したのと同様の心理であった。国葬が9月27日に実施されるにしても、以上の不透明さをほうかむりさせる意図は、満足させてはならない。それは日本の民主的な社会発展をくじかせるものである。それこそ元首相の黒い遺産の継承とその上塗りになる。言い換えれば、国葬後の公正で明朗な社会の進展が確保されねばならないということである。
6.多数の諸国からの弔辞が寄せられたのは、当然である。その大きな一覧表を作成して、どや顔でいるとすれは幼稚以下である。それは今後の日本との関係構築のため以外の何物でもないからだ。これと同様に、国内的にも国葬後をにらんだ議論と行動が必要であるということになる。本来ならば、国葬の対象となるような「偉功のある者」に対しては、宗教界も黙ってはいないはずである。それが人情であり、人と国を思うこころである。ところが現状は、しらけムードである点を特記しておこう。
7.不透明な説明を飲み込まされ、海苔弁という「愛称」で知られる黒塗り国会資料で我慢させられ、辻褄合わせにもなっていない法解釈で振り回されてきた。それ以外にも多数類例はあるのだろう。まっすぐ開けた公道は避けて、裏路地を逃げ回る姿勢を人は好んでいないのである。こういう巧者が世を支配する時代は、やはり文明のらん熟期ということである。その趨勢は歴史が明らかにしてきた。国葬後は、是非とも宗教界も正直者が馬鹿を見ない日本社会の公明正大化を目指して、宗教的で倫理道徳的なさまざまな指摘のために活発な発言をして然るべきであると思われる。
以上(2022.8.15)
注
1 戦後唯一の実施例である67年の吉田茂元首相の国葬も今回と同様に閣議で実施を決めたが、当時も「法的根拠がない」と批判が出た。その後も法令や基準はなく、75年の佐藤元首相の葬儀は野党の反対で内閣と自民党、国民有志の「国民葬」に。80年に死去した大平元首相以降は「内閣・自民党合同葬」が慣例となった。中曽根元首相の場合、国葬に反対したのは安倍元首相自身であったことは、人の記憶に新しいものがある。
安部晋三元首相の「国葬」は「適切」か? 鎌田東二
新聞報道によると、岸田首相は安部晋三元首相の「国葬」は「適切」だと公言しているらしい。
だが、それはほんとうに「適切」なのか?
だが、それはほんとうに「適切」なのか?
先の「真空」欄コラム記事(2022年7月11日記)に書いたように、安部元首相に対する銃撃が旧統一教会(世界平和連合)に対する恨みであったという報道が選挙中に一斉報道されていたとすれば、選挙結果が変わっていた可能性がある。
つまり、少なくとも、「自民大勝」などと報道される結果とはならなかったということだ。だとすれば、民主主義の根幹である選挙によって選ばれたという「大義名分」をもとに、「さまざまな意見があることは承知している」と言いながら、国民の意見を二分していることを「適切」だと強行することははたしてほんとうに“適切”と言えるのだろうか?
安部元首相の「国葬」をとんでもないと反対する人が多数いる。わたしもその1人だ。8月1日付けの共同通信には、<安倍元首相の「国葬」に反対53.3%、賛成45.1%>と掲載されている(注2)。それによると、賛成よりも反対の方が多い。なぜそれを無理やり「国葬」にする必要があるのか? 大変疑問である。
弔問外交に国益があるという議論がある。しかし、安部元首相の内政にも外交にも国益を損ねた面も多々あると言える。確かに、米国とのトランプ外交は一定の成果を収めたかもしれない。だが、最隣国の韓国との外国は最悪だった。北朝鮮は言うに及ばず、中国との関係もそうだ。それは、はたして「国益」を強化したのか?
内政については、アベノミクス経済効果を支持し、指摘する面がある。しかし、国内の経済格差は広がる一方であり、力強い「地方創成」は見られない。一部の企業や株式は利益を上げ、数値上は一定の効果を上げたように見えるかもしれないが、その実態は空虚であり、悲惨である。
コロナ対策についても然りである。打つべき手を間違った。「アベノマスク」など、国費を何百億も無駄に使ったではないか。それも一存でそのようなことを決めた。最悪・最低の政策であった。
災害対策もそうである。自然災害の激甚化に向けて「防災省」などの大きな機関を作って国全体で事に当たらねば太刀打ちできない事態がやってくることが目に見えているにもかかわらず、根本的な対策を講じることなく、目先のあれこれに終始した。ポピュリズムも甚だしい。
また、森友学園、加計学園、桜を見る会の問題も、徹底追及されることなく、うやむやに事態を「忖度」状態にさせたままである。これまた最悪・最低であり、民主主義が有効に機能しているとは思えない異常事態である。
このようなことをいくつか挙げてみても、安部元首相が「国葬」に相応しい政治家であるとはまったく思えないし、評価できない。
にもかかわらず、「国葬」にする、と言う。
これには、別の政治意図がはたらいていると勘ぐるほかない。その一つは、「旧統一教会」問題隠しという意図である。何とか、事を荒立てないように、問題を矮小化しようと、自民党と政府が躍起になっている。党も、内閣も、一体になって。
異常事態であろう。
マスコミも、選挙が終わって、「旧統一教会」問題を取り上げるなら、その前から明確に取り上げるべきだった。そうであれば、選挙結果は変わったはずだ。マスコミ、報道も、「忖度」したように見える。
日本の置かれている状態は、異常であり、劣悪であり、期待できるものがない。まさに、「絶体絶命」の断末魔にあるように思える。(2022年8月11日)
注
(1)2022年8月6日付け毎日新聞記事に次のように掲載されている。
<岸田首相、安倍氏の国葬で「弔意を国全体として示すことが適切」
岸田文雄首相は6日、広島市で記者会見し、9月27日に予定されている安倍晋三元首相の「国葬」について「世界各国がさまざまな形で弔意を示している。我が国としても弔意を国全体として示すことが適切だ」と述べ、改めて必要性を強調した。
首相は国葬に対して「さまざまな意見があることは承知している」と述べた。その上で、国葬を開く理由について「8年8カ月という憲政史上最長の(首相在任)任期、民主主義の根幹たる選挙運動中の非業の死、これらは間違いなく他に例を見ないものだ」と説明した。 首相は開催に当たり「特に海外からの評価」を考慮したと強調。海外での議会での追悼決議の採択や公共施設などでのライトアップなどの例を挙げ「世界各国がさまざまな形で国を巻き込んで安倍元首相に弔意を示している」と指摘し、「わが国としても国の公式行事として開催し、各国の代表をお招きする形式で葬儀を行うことが適切だ」と述べた。 国葬の規模や内容については「だんだん明らかになってくるので、さまざまな機会を通じて丁寧に説明をしていきたい」と述べた。国会での説明については「さまざまな機会を捉えてしっかり説明を続けていく」と述べるにとどめた。【中村紬葵】>
(2)共同通信にはこうある。<安倍元首相の「国葬」に反対53.3%、賛成45.1%…共同通信世論調査 8/1(月)
告別式後、安倍元総理の遺体を載せ増上寺を出る寝台車(7月12日)
大手メディアが実施する世論調査の結果が、必ずしも民意を反映していない場合もみられるが、それが自身の意見や考えが近ければ、納得できるものである。 関連画像を見る 共同通信社が7月30、31両日に行った全国電話世論調査によると、安倍晋三元首相の国葬に「反対」あるいは「どちらかといえば反対」が計53.3%を占め、「賛成」あるいは「どちらかといえば賛成」の計45.1%を上回ったという。 岸田内閣の支持率も51.0%で7月11、12両日の前回調査から12. 2ポイント急落。昨年10月の内閣発足以来最低となったそうだ。 また、日経の世論調査でも、岸田内閣の支持率は58%で6月調査の60%から2ポイント低下。岸田政権発足以降、2番目に低い水準。日経の調査でも安倍元首相の「国葬」について聞いているが、「反対」が47%、「賛成」が43%と、評価が割れたとも伝えている。興味深いのは世代別だが、18~39歳で「賛成」が57%を占めたものの、60歳以上では38%だったという。 親鸞上人の「歎異抄」の一節に「善人すら往生を遂げることが出来る、悪人が遂げえない筈はない」という有名な言葉があるが、それはともかく、国葬を予定している9月27日は学校や会社は休日とはしないで、弔意を表す「黙とう」なども要請しないそうだ。 2022年8月1日付>
また、北海道新聞には次のようにある。
<安倍氏国葬、割れる賛否 報道各社の世論調査 「説明不十分」多く 8/2(火)
国葬に関する報道各社の世論調査
報道各社が7月下旬に行った世論調査で、故安倍晋三元首相の国葬に対する賛否が軒並み割れる結果となった。実施理由を巡る岸田文雄首相などの説明を、不十分と感じている国民が多いとみられる。野党は世論の動向を踏まえ、3日召集の臨時国会後に行われる閉会中審査で、政府・与党の対応を追及する構えだ。
共同通信の調査では、「反対」「どちらかといえば反対」が53%と「賛成」「どちらかといえば賛成」を8ポイント上回った。日経新聞・テレビ東京の調査でも「反対」が47%だったのに対し「賛成」が43%。産経新聞・FNN(フジテレビ系)の調査でも「よかった」「どちらかといえばよかった」(50%)と「よくなかった」「どちらかといえばよくなかった」(46%)の差が4ポイントにとどまった。
政府は7月22日に国葬を閣議決定。安倍氏を悼む多くの人が東京・増上寺や自民党本部に詰めかけたことなどから、当初は「国葬への反対は強くない」(官邸関係者)とみていた。だが、野党から「説明が不十分」などの異論が噴出。自民内からも「国葬は延期し、落ち着いた状態で実施した方がいい」「(首相は)スパっと決めた方が評価が高くなると勘違いした」との声が相次いでいる。 共同通信の調査では、国葬に関する国会審議が「必要」との回答は61・9%に上った。政府・与党は当初、国会での説明は不要との姿勢を崩していなかったが、こうした調査結果も考慮し、野党が求める閉会中審査に応じることにした。>
宗教信仰復興現象のなかの統一教会(世界平和統一家庭連合)と政治家 島薗 進
7月8日、参議院選挙で遊説中の安倍元首相が銃撃により殺害された。この許しがたい犯行の背後に、宗教教団への恨みがあることが露わになってきている。山上徹也容疑者の母親が世界平和統一家庭連合(統一教会)に所属し、多額の献金を行ったことで生活が破壊されたことへの報復の意図があったという。このような犯行はけっして許されることではない。
だが、宗教教団がなぜそのような恨みの対象となったのか、また、それが安倍元首相という政治家を対象とする犯行となったのか、という問いが生じる。このような事件が2度と起こってはならないという思いは、自ずから犯行動機の理解へと向かう。それに対して、宗教信仰研究に取り組んできた立場から、統一教会などの新宗教を長年、研究しこれまで得てきた知見から、参考になる情報を提示したいと考える。
ここでは、2つの話題について、関連情報を提示して、上記の問いへの答えを得る手がかりとしたい。
(1)なぜ安倍元首相という政治家を対象としたのか?
宗教教団への恨みが、なぜ安倍元首相という政治家を対象とする犯行となったのかについて、以下の海渡雄一、小川隆太郎両弁護士による反訴状(2020年9月24日)を参照していただきたい。
https://socioanalysis.net/slapp/wp-content/uploads/2020/09/nakano_slapp_20200925_counterclaim.pdf?fbclid=IwAR2KXM0MLw2SlwMA72eiDI-To_uxhs0HCPVXiP_wnIFmEW1nHOE9liqCSdc
この反訴状が出された訴訟について、『東京新聞』2020年9月25日号は、「「嫌がらせ目的のスラップ訴訟だ」自民・世耕議員の提訴に青学大・中野昌宏教授が反訴」との見出しを掲げて、次のように述べている。
「ツイッター投稿が名誉毀損だとして自民党の世耕弘成参院幹事長から提訴された、青山学院大の中野昌宏教授が25日、世耕氏に慰謝料など150万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしたと発表した。世耕氏の提訴を「批判者をだまらせるなど、公共の言論空間の萎縮を目的とした人権侵害だ」としている。
中野氏は2018年2月と昨年7月、世耕氏について「原理研究会(統一教会)出身だそうですね」などと投稿。世耕氏は昨年10月に中野氏を提訴し、「所属しておらず投稿内容は虚偽」と主張した。(中略)訴状では、世耕氏は中野氏の投稿へ否定や反論、削除要請をせずに提訴しており、どう喝や嫌がらせを主眼にした訴訟だと主張。」
この反訴状の17-26ページを見ると、(1)自民党と統一教会の密接な協力関係の歴史、(2)1950〜70年代、(3)1980〜90年代、(4)2000〜2010年代:第1次安倍政権前後、(5)第2次安倍政権、と題して、およそ60年にわたる統一教会と自民党との「密接な協力関係」が示されている。
(2)統一教会という宗教教団はなぜ多大な恨みをかうことになったのか?
次に、統一教会という宗教教団はなぜ多大な恨みをかうことになったのかについてだが、これについては、筆者が『新宗教を問う』(筑摩書房、2020年)に記したものを引かせていただく(240-243ページ)。詳しくは『新宗教を問う』そのものをご覧いただきたい。
統一教会の現世否定的な側面
もう一つこの時期に発展した新宗教のなかで取り上げるべきものに統一教会がある。統一教会もエホバの証人と同じように外国から入ってきた新宗教だ。その母国は韓国である。現世否定的な面と現世肯定的な面が混合している宗教で、世の終わりを強調しているところもある。世の終わりは現世が悪にまみれているという考えと結びついている。活動形態には出家的な傾向があり、若者がこの世の生活を捨てて共同生活をする。結婚も神の意志のままに行う。一般社会のモラルとは違うようなラディカルな宗教的生き方を勧める。悔い改めるべき罪を強調するのも特徴だ(櫻井義秀・中西尋子『統一教会』、参照)。
統一教会は世界キリスト教統一神霊協会の略称である。現在は世界平和統一家庭連合と称している(韓国では1994年、日本では2015年に改称)が、ここではよく知られている統一教会という名称を用いる。もともとキリスト教を名乗ってはいたが、キリスト教の来世思考、現世否定的な面を受け入れながら、韓国の土着的な儒教や道教が混ざったような現世肯定的な宗教性ももっている。
教祖、文鮮明(1920―2012年)は現在の北朝鮮の平安北道の生まれで、日本で苦学していたこともある。戦後、北朝鮮でキリスト教の布教にあたったが投獄され、南の軍隊(国連軍)によって釈放されたという。この時期、京城帝国大学医学部に学んだ劉孝元と出会い、その助力を得て、1954年、世界キリスト教統一神霊協会が発足している。聖典、『原理講論』も劉孝元の筆によってまとめられたものだ。
『原理講論』では、聖書の創世記を独自に捉え返して「堕落論」が引き出されている。天使であったはずの蛇がサタンとなってエバと姦淫し、続いてアダムも淫行に加わった。これが人類の堕落のもとである。人類は原罪を負い、サタンの血統を継承することになった。こうして堕落した人間が神に近づいていく復帰の歴史を推し進めていかなくてはならないとする。このように性が悪(罪)をもたらすとし、若者に性的禁欲を求めるとともに、神の導きによる正しい結婚を行うことが救いへの道であると説く。教祖の命じた相手との集団結婚(「祝福」とよばれる)を推し進めるのもこの教えにそったものだ。
罪を負った人間が復帰の摂理を完成するのはイエスの再臨である文鮮明によってだ。だが、その過程を推し進めるために、罪を減らしてこの世の資源を神の下へと復帰させていく必要がある。罪を清算することを「蕩減(とうげん)」といい、また「万物復帰」という。実際には教団に人的物的資源を惜しみなく投ずることを指すことになる。壺や多宝塔や印鑑などの物資を破格な高額で売りつける霊感商法も「蕩減」として正当化された。日本の統一教会が社会問題となったのは、60年代から70年代にかけてで、若い信徒を家族から切り離し共同生活をさせ、時に学業放棄に向かわせるからだったが、80年代には霊感商法と合同結婚によって厳しく批判された。
日本社会と対決した統一教会
統一教会は世界諸国で活動を行ったが、霊感商法が激しく行われたのは日本だった。これは日本は堕落を引き継ぐ「エバ国家」であり、「アダム国家」である韓国に負債があり、日本が韓国に「侍る」、つまり人材と資金の供給を行うのは当然だという教えにのっとったものだ。韓国では約7000人の日本人女性信徒が、統一教会の「祝福」により韓国人男性と結婚したが、これは韓国の農村部の男性の結婚難が背景にあったとされる。
統一教会は共産主義と戦うことを自らの使命とし、1968年に国際勝共連合を設立した。これによって韓国の軍事独裁政権だった朴正煕大統領の支持を得、日本の右派や反共主義者とも手を結んだ。1974年には世界平和教授アカデミーを組織し、大学教授などの支持を得ることにも力を入れた。選挙のときに自民党の政治家を助ける活動にも関わっており、2010年代にはそれが続いている。統一教会が日本人からの搾取を正当化する教えをもっていることが報道されたあとも、この事態は変わっていない。
社会に害悪を及ぼす宗教教団を「カルト」とよぶ用語法は、オウム真理教事件によって広まるようになった(「カルト」の語の用語法の歴史については、井門冨二夫『カルトの諸相』参照)。しかし、一般社会の良識に正面から挑むような活動を行ったという点では、1980年代以降の統一教会が及ぼした影響も大きい。統一教会には現世の悪や人間の罪深さを強調し、それと対決することを促す性格があり、それ以前の現世肯定的な新宗教とはだいぶ異なる志向をもっていたといえる。それまでの新宗教では、中年の女性が信仰活動の主体となることが多かったが、統一教会の場合は、オウム真理教と同様に若者の、それも男性の入信が多いのも新しい特徴だった。
創価学会も発展していく時期には一般社会と対立する局面があった。そういう局面が統一教会やオウム真理教に引き継がれていく。だが、その間に創価学会は一般社会と良い関係を保つ方向へといくぶんか転換していった。また、創価学会の教えには現世否定的な側面は乏しかった。これに対して統一教会は、新新宗教、つまり1970年前後から次第に目立ってくる、新しいタイプの新宗教の早い例といえる。
以上、主に引用という形で、(1)なぜ安倍元首相という政治家を対象としたのか、(2)統一教会という宗教教団はなぜ多大な恨みをかうことになったのか、という問いに答えるための素材を提示した。オウム真理教がもたらした衝撃とは異なる形ではあるが、今回の安倍元首相殺害事件は宗教研究者や宗教者に問いを投げかけている。ここに提示した資料は、そのことを側面から証するものである。
宗教信仰復興会議は現代における宗教信仰復興について考えていくことを主要な課題の一つとしているが、現代の宗教信仰復興がときにたいへん暴力的、あるいは抑圧的な形をとることについて考えていくことも、その課題の大きな一部であると考えている。今回の不幸な出来事を一つの契機として、さらにこの課題に深く取り組んでいきたい。
報道と参議院選選挙結果と「特定の宗教団体」 2022年7月11日夜に記す 鎌田東二
昨日(2022年7月10日)20時、参議院選の投票が終わり、即日開票となった。予想どおり、自民党の圧勝だった(と言えるだろう)。前々日の7月8日に、安部晋三元首相が自製の銃からの発砲に被弾して倒れるという、青天の霹靂のような予想外のことが勃発し、国内外が騒然となったことも大きく影響しての結果である。
それは、銃を撃って安部元首相を殺害した容疑者が恨みを持っているという「特定の宗教団体」名が各社報道ではほぼ明らかにされないままに投票日当日を迎えたことである。選挙が終わった7月10日くらいからそれが「統一教会」(現在は「世界平和統一家庭連合」)であると一般にも報道され始めた。
もちろん、一部のネット情報や宗教情報に詳しい人たちの間では、事件当日から「特定の宗教団体」が「統一教会」であるという書き込みや認識はあったようである。が、それが各社報道で「特定」されることはなく、ただ抽象化されて「特定の宗教団体」とだけ報道されつづけた。ほぼ2日間。
これは、もちろん、不確かな報道をしないという報道各社の自制もあったかもしれない。また、警察当局の情報公開の精度や抑制もあったかもしれない。
細かく言えば、各種報道機関でも差異はあるだろう。しかし、当日からのTV報道を中心に見ている限りでは、「統一教会」という明確な「特定」はされなかった。
この時、当然のことながら、新聞やネットニュースの読者やTV視聴者は、その「特定の宗教団体」がどこであるか、関心を持っただろう。しかし警察も報道各社もその「特定」化はしない。そこで、疑念を持ったり、関心を持ったりした人は、それがどの団体であるか、大手報道機関ではないところで流れているネット情報を検索したであろう。そしてそれが、「統一教会」らしいという情報に触れることになったと推測される。
しかし、それは大手新聞社やTV各社で参議院選選挙が終わるまで固有名が明示されることはなかった。
ちなみに、事件当日と翌日に朝日新聞電子版の記事の冒頭部を引用しておく。
<「特定の宗教団体に恨み。近い安倍元首相を狙った」 容疑者が供述 2022年7月8日 20時38分
安倍晋三元首相が街頭演説中の奈良市で銃撃され死亡した事件で、現場で逮捕された山上徹也容疑者(41)が「特定の宗教団体に恨む気持ちがあった。安倍元首相が(その団体に)近いので狙った」という趣旨の供述をしていることが捜査関係者への取材でわかった。
山上容疑者は8日午前、演説中の安倍元首相の背後から手製とみられる銃を発砲して殺害しようとした疑いで現行犯逮捕された。
捜査関係者によると、逮捕後の調べに対し、特定の宗教団体の名称を挙げて「恨む気持ちがあった」と説明。そのうえで「安倍元首相が(その団体と)近いので狙った」という趣旨の供述をしているという。
一方で、「(安倍元首相の)政治信条に恨みはない」などとも話しているという。>
<父は急死、母は宗教団体へ多額の金 安倍氏銃撃容疑者の生い立ち 2022年7月9日 21時08分
安倍晋三元首相(67)が銃で撃たれて殺害された事件で、殺人未遂容疑で奈良県警に現行犯逮捕された無職、山上(やまがみ)徹也容疑者(41)=奈良市大宮町3丁目=の親族が朝日新聞の取材に応じ、「山上容疑者は子どもの頃から、母親が入信していた宗教団体をめぐって苦労していた」と話した。
捜査関係者によると、山上容疑者は逮捕後の調べにこの宗教団体の名を挙げ、「恨む気持ちがあった」と説明。その上で、「安倍元首相が(その団体と)近いので狙った」という趣旨の供述をしているという。
取材に応じたのは、山上容疑者の親族で大阪府内に住む70代の男性。男性によると、山上容疑者は建設会社を営む父と母の次男として生まれ、兄と妹の5人で生活していた。(以下略>
問題は、報道各社がこの「特定の宗教団体」がどこであるか分かっていてそれを記事にするのを避けたのか、それとも奈良県警なり政府機関が報道各社に「特定の宗教団体」を明記しないように求めたのか、なぜ報道各社はこの不自然な表現をほぼ2日間も使い続けたのかである。
これは、「事実」をいち早く読者に伝えるという報道機関の役割に即していない。もちろん、それが誤認報道であったとしたら、大問題である。だが、かなり精度の高い情報を知っていたにもかかわらず、それが抑制されていたとしたら、別の大問題が起こる。
というのも、もしこれが8日の午後以降の段階で、「特定の宗教団体」が「統一教会」だと報道されていたら、選挙結果は変わっただろう。少なくとも「自民党圧勝」とか「自民党大勝」という結果にはならなかっただろうということだ。
というのも、当然のことながら、浮動票をはじめ、投票自体、投票時(投票前後)の国民心理の反映ないし投影があるからだ。投票所に行ってから、その時のイメージで誰に投票するか、どの政党に投票するか、決めることもあるかもしれない。
だとすれば、7月8日・9日の事前投票と、10日当日の投票は「特定の宗教団体」という曖昧な表現のままぼかされた情報を手がかりとしたイメージで、投票権者は、各社報道による一抹の不安と何らかの疑念を抱えたまま、その間の投票を行なったということになる。
その結果が、「自民党の圧勝(大勝)」であった。そして、選挙戦最後の2日間、「議会制民主主義を守る」「暴力に屈しない」という合言葉が声高に叫ばれる中、それまでに事前投票を済ませていない国民は投票することになった。
もし、これがすでに分かっていて、2日間近く故意に隠されていたとしたらどういうことになるか? それこそ、国民の知る権利や信教の自由や政教分離など、民主主義の根幹に関わる大変な事態である。つまり、「事実」を知らされないまま、十分に吟味できないまま、曖昧な情報と不安定な心理で投票することになるからだ。
もちろん、多かれ少なかれ、そのような不安定さや流動的なイメージ作用は常にあるし、起こっている。だからこそ、米国大統領選挙に典型的に見られるようなネガティブ・キャンペーンなども選挙運動に利用されることになる。
国民が「安定した秩序」を求めて、とりあえず自民党に投票したというならば、この「特定の宗教団体」が明示されないままに行なわれた投票というのは、本当に「安定した秩序」構築になると言えるだろうか? むしろ、一層の疑心暗鬼を生むような「不安定さ」を事後にもたらず不自然な2日間だったということになるだろう。
この2日間の報道の「もやもや」が解消されず、「うやむや」になってしまうことを懼れる。報道と選挙・投票とその結果について、デリケートな相互関係があることを、改めて今回の事件で思い知らされた。
空気の色は何色?―見えないものごとの重要性 水谷 周
空気の色は無色と思うのが普通です。しかし宇宙から見ると、「地球は青かった」ということになります。人は自分のいる所からは、どういった空気に取り囲まれているか、容易には判明ません。それと同様に、自分の生きている時代の特徴といってもはっきりはしないのが通常です。本論では、戦後日本社会の無宗教とも言われる時代の特徴を、しっかり把握することを目指します。
一方、そのような時代の特徴に関しては、当然のように思っていたことが覆されるケースもあるから、興味は尽きません。ここではまずいくつかそのような、チャブ台返しのように日頃の常識が逆転させられた事例を取り上げます。それは歴史上有名な、「コペルニクス的転回」にも相当します。天動説が地動説に裏返させられたのですから、驚き以外何物でもありませんでした。
1.アンリ・ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生』 地中海を取り巻くローマ帝国は、北方からの蛮族の民族移動により、その繁栄を奪われたと見るのが普通でした。それが世界史に出てくる定説でした。しかしそれを覆したのが、この『ヨーロッパ世界の誕生』です。そこでは、7世紀以来イスラーム勢力が地中海の南半分を支配するに及び、地中海貿易を牛耳ることとなったことで、ローマ帝国の衰退は決定的となり、最後の崩壊を迎えることになったというのです。実にイスラームの進出が世界の成り立ちを変えてしまったということなります。
2.ロナルド・フィリップ・ドーア『江戸時代の教育』 日本の教育はレベルも高いし、謹直な姿勢は国民性として世界でも自慢できると考えている人は、少なくないはずです。日本の近代発展の上で教育の果たした役割は、確かに大きいものがありました。しかしそれは国民性というよりは、それ以前の江戸時代の教育に大きく依存していたというのです。藩校における教育の実態や寺子屋・郷学・教諭所での教化訓練のあり方を通して,江戸時代の教育がどれほど近代社会成立の基盤を準備したかを、綿密に跡付けています。これも人の常識を覆すものでした。
3.鈴木大拙『日本的霊性』 日本は仏教を取り入れましたが、それは鎌倉時代に浄土教と禅宗の発達をみることで、初めて国民に根付いたという見解です。それまでは別物と見られていた念仏と座禅によって日本人の宗教性が覚醒し、霊性が開花したというのです。それ以前は仏教といっても主として鎮護国家を目的とした支配者層のものでした。そして浄土教系と禅宗系の両派は、実は日本的霊性という視点からすると同根であるという点で、全く新たな見解となったのでした。仏教の日本定着に関する逆説的な見地を広めることとなりました。
4.ヨハン・ホイジンハ『ホモ・ルーデンス』 意味は「遊ぶ人」ということですが、遊びこそは人間の文化形成の原点であるというのです。通常は、遊びというのは仕事と対比されて、真面目な側面である文化や社会の創出と関連付けられるとは、あまりなかったと言えるでしょう。その点、真逆になりますが、遊びこそは文化創造の出発点だとしたのでした。遊びは人の自然で自由な営為であり、そこで働かされる想像力は人の創造力にも貢献してきたのでした。そのような諸例は、異なる文化文明や古今東西の地理的な条件に縛られない話です。つまり人類の法則といえるものなのでしょう。
この他にも種々実例はあるはずですが、ここではこれで止めます。そしてここからは、どうしてこのようなチャブ台返しの諸例を見て来たか、その理由を記します。それは現代日本における宗教信仰を巡る状況は、やはり色の見えない空気なので、その実像はなかなか一筋縄では判明しないという問題を提示するためです。その難しさを浮き彫りにするために、自分の浸っている世界認識の「コペルニクス的転回」の諸例を列挙したということです。
敗戦後の日本は、非常に特殊な時代に入りました。戦前の軍国主義を支えることとなった国家神道はじめ諸教に対する失望感は非常に大きなものがありました。「神も仏も助けてくれなかった」という実感です。そのために、新憲法で政教分離が掲げられたのですが、それは何の抵抗にも合わずに日本社会全体に浸透しました。いや、それ以上に宗教は社会の中で片隅に置かれる存在になりました。過敏なアレルギー症状を伴いつつ疎外されたと言っても過言ではありません。公的教育から追放されるだけではありませんでした。自らが特定の宗教に帰依することは避けるのをためらわず、また世界における宗教の精神的な役割に関する理解や共感も喪失してしまいました。「宗教」という言葉を見たり聞いたりするだけで、拒絶反応を示す様子を想像するのに手間はかかりません。
物質的な繁栄だけを追い求め、それが人生すべてであるという亡霊に取りつかれたのです。これは感染病のようなものですが、ワクチンなど妙薬はありません。病気だと気が付いた人は、見えない敵と戦うしかないのです。それは社会全体の潮流にそぐわないので、広く理解と同情を集めることも全く期待外です。しかしいずれその清算を迫られる時は来ざるを得ません。自殺大国、援助をしても物中心で心が通じないので感謝されない日本、常に生きがいが大きなテーマになること、人生の最後に近づくと千々に乱れる心などなど、社会の歪みが精神的な泉の乏しさに起因している現象は、日常茶飯事です。そしてそれに薄々気づいてはいても、明確な警鐘が鳴らされず、さらにはほとんど手立てが施されずに時間が過ぎていることは、嘆かわしいとしか言いようがありません。
今の日本でも折々の神社参りや墓参りは、それなりに熱が入っているようです。またお祭りが好きだという人は少なくありません。それらを見て、日本も捨てたものではないという結論を出して、それで一安心というのであれば、それは自分を慰めているに過ぎません。人間の歴史全体における宗教の意義を正しく認識して、それを公教育で教えることがまず求められます。さらに宗教の如何を問わず全国民的な黙祷や祈りなどの儀礼を確立し実施することも有効でしょう。しかしこのような具体論はこの小論の範囲を越えます。
本論のポイントは、敗戦後日本社会の風潮となった宗教アレルギーという、特殊な時代的特徴を浮き彫りにして、それを見失わないという点にあります。
「現代京都藝苑2021」開催報告 秋丸 知貴
始まりは、鎌田東二の霊感(インスピレーション)である。日本語の「もの」は、「物(モノ)」と「者(モノ)」と「霊(モノ)」を含意する。つまり、「もの」という一語に「物質的次元」「精神的次元」「霊的次元」が重なり合っている。この「もの」という言葉に込められた重層性を手掛かりとして日本の伝統的感受性の内容と意義を探るのが、鎌田の提唱する「モノ学・感覚価値」研究の主要な目的であった。
要するに、古来日本人にとって自然は、近代西洋科学が対象とする死せる無味乾燥な「材料」ではない。日本の伝統的感受性において、自然は全て人間と同類の「心」を持つ精神的存在であり、物質的にも人間と同等の価値を持つ「素材」である。なぜなら、本来人間を含む自然は全て、彼岸の「幽」界における「大霊(サムシング・グレート)」の分有であり、その個々の「霊」は此岸の「顕」界に物質化する際に「魂(アニマ)」となって宿るからである。古来、日本人はこの「霊魂」が顕幽両界を循環する死生観を育みつつ、自然においても人間においてもその「霊魂」の強い現れを神々として捉えてきた1)。
従って、「もの」という日本語を手掛かりに日本の伝統的感受性を探る試みは、「幽」界の存在を否定し、「顕」界だけが全てと見なすことで、飛躍的に物質的発達を遂げた代わりに、致命的な人間疎外や自然環境破壊をもたらした、理性的男性原理を偏重する近代西洋文明のマイナス面に対する補完要素となりうる。それが、「モノ学・感覚価値」研究の今日的意義だったと言える。
この鎌田の「モノ学・感覚価値」研究は科研費に採択され、日本の伝統的感受性を最も色濃く残す千年の古都京都で繰り広げられることになった。なぜなら、鎌田の在籍する京都造形芸術大学(現京都芸術大学)で出発し、後に転任した京都大学こころの未来研究センターを拠点としたからである。2006年にモノ学・感覚価値研究会が発足し、2009年にはアート分科会も誕生した。モノ学・感覚価値研究会及びアート分科会が精力的に研究会・シンポジウム・展覧会等を行う中で、一つの集大成として2015年3月に開催されたのが「現代京都藝苑2015」であった2)。
「京都藝苑」は、高橋博巳が提唱した学術用語である3)。つまり、18世紀後半の京都において大勢の文人達と画家達が一つの濃密な交流圏を形成したことを指す。現代の京都において、鎌田を中心として大勢の学者達と芸術家達が連携して展開したモノ学・感覚価値研究会及びアート分科会こそは正に「現代京都藝苑」と呼べるだろう。
この現代京都藝苑2015は、「悲とアニマ」展(北野天満宮)、「素材と知覚」展(遊狐草舎・虚白院)、「連続の縺れ」展(The Terminal KYOTO)、「記憶の焼結」展(五条坂京焼登り窯)という4つの現代美術の展覧会(5会場)から構成された。その美学・美術史上の意義は、次のようにまとめられる。
最も重要な点は、神社、町家、仕事場という日常生活に根差した空間で展示することにより、現代美術における日本の伝統的感受性の現れ方が浮き彫りになったことである。つまり、ゲオルク・ジンメル4)やアンドレ・ジイド5)が指摘するように、近代西洋の美術(ファイン・アート)は作品を人間理性の純粋な自律的完結物として自然や生活から切り離す。そのため、展示においては額縁や台座が強調され、日常生活上の機能連関が一切遮断された純白空間(ホワイトキューブ)が要請されることになる。これに対し、現代でも日本の美術作品は逆に自然や生活との連続的性格が強く、人と物と場の相互作用が生み出す雰囲気が重要な意味を持つことが多い。そこでは、近代西洋の美術(ファイン・アート)が切り捨ててきた宗教性や実用性が濃厚に漂うことになる。このことは、出品作家達が皆あくまでも近代西洋由来の美術(ファイン・アート)の枠組みで作品展示したからこそ明らかになった特色と言える。
それらの中でも特筆すべきは、従来現象学的観点からばかり論じられてきた1970年前後の現代日本美術を代表するもの派が日本の伝統的感受性を強く成立要因としていたことや、そうした日本の伝統的感受性を21世紀の現代日本の美術家達も数多く共有していることや、それらの現代日本美術が生花・茶道・能楽等の日本の伝統的な芸道と親近性を持つこと等である。すなわち、谷川徹三が近代西洋の美術(ファイン・アート)を基準として嘆いた「芸術的隔離性6)」の低さこそが、むしろ逆に現代日本美術の個性として、大西克礼の「パントノミー7)」や鼓常良の「無框性8)」の文脈で高く評価できるのである。
◇◇◇
そして、その6年後の2021年11月から翌年1月にかけて開催した「現代京都藝苑2021」は、これらの問題をより深め広く社会発信することを目指すものであった。主イベントである展覧会(会期:11月19日~28日)の出品作家については、存命作家は2015年の出品者から選抜し(池坊由紀・入江早耶・大西宏志・大舩真言・岡田修二・勝又公仁彦・鎌田東二・小清水漸・近藤高弘・関根伸夫・松井紫朗)、さらにもの派の吉田克朗と成田克彦を新たに加えた。
展覧会のタイトルは、「悲とアニマⅡ」とした。2015年の4つの展覧会の内、「悲とアニマ」を選んで続編としたのは、現時点においてそこに日本の伝統的感受性が最も現れやすいと考えたからである。つまり、感受性は本来自然であるために無意識的であり、それを意識的に表現しようとすると不自然になる。そこで、出品作家達には日本の伝統的感受性を直接表現しようと努めるのではなく、東日本大震災から10年後であり、新たに新型コロナウィルスという大災厄に見舞われた現在に感じていることをありのまま自由に表現してもらい、そこで自ずから立ち現われるものを提示することにした。
このことは、次のように言い換えられる。カール・ユング9)やエーリッヒ・ノイマン10)に倣えば、人は強烈なショックや絶望的な無力感を経験した時に、意識から無意識へ、さらに集合的無意識へと沈潜しやすくなる。もし日本の伝統的感受性が立ち現われるとすれば、それはこの集合的無意識の領域においてのはずである。また、集合的無意識は、彼岸へと繋がる聖なる領域であり、宗教や芸術を始めとするあらゆる創造力の源泉とされる。そこでは、人は様々な元型(アーキタイプ)を触媒として、此岸の自分や社会に欠けている要素を補償するイメージを獲得する。そうした元型の例として、共に「アニマ」と訳される「内なる異性」や「自然の魂」が考えられる。もし日本の伝統的感受性に基づいて近代西洋文明のマイナス面を補完する芸術的シンボルの創造を求めるならば、「悲」において「アニマ」と向き合うことはその有力な契機でありうる。これらが、「悲とアニマ」という詩的で抽象的な展覧会名を採用した意図であった。
この観点から、監修の鎌田東二の発案により、展覧会のサブタイトルは「いのちの帰趨」に決まった。鎌田はかねてより顕幽両界における霊魂の循環を「翁童論」として説いており11)、それを言い換えた「いのちの帰趨」によりこの展覧会が死生観における日本の伝統的感受性のあり方をテーマとする方向性がより明確化された。これを受けて、監修の山本豊津の提案により、展覧会の展示構成は、第一会場である仏教寺院の両足院を「彼岸」、第二会場である町家のThe Terminal KYOTOを「此岸」と位置付け、出品作家がそれぞれ両会場に出品するという方式が定められた。これは、両会場の間を流れる賀茂川が古来京都では彼岸と此岸を分け隔てる意味合いを有していたというサイト・スペシフィックな文脈を生かすものであった。
個々の展示作品の解説については、現在準備中の図録に譲る。本稿では、特に日本の伝統的感受性という点で注目すべき作品に焦点を当てて紹介しよう。
まず取り上げるべきは、展覧会初日前日の11月18日に両足院の本堂で本尊の阿弥陀如来に献華式を行った池坊由紀である。この献華式で、池坊は華道本流の次期家元として、生花の技法を用い、生花が仏への供花に由来するという文化的伝統に則りつつ、一人の美術家(ファイン・アーティスト)としてコンセプトを重視する《巡り――いのちが去り》(2021年)(図1)を展示した。作品構成上、これは黒く染めたシダレグワを∪型に設え、ツルウメモドキの無数の赤い実をあしらい、前に若松を立てたものであり、The Terminal KYOTOの床間で、白く脱色したシダレグワを∩型に垂らし、グロリオサの赤い花弁を一つ差し、アンスリウムの枯葉で飾った《巡り――いのちが生まれる》(2021年)(図2)と呼応するものであった。この一対で白黒や花実や老若を対比する円環構造について、池坊自身は「彼岸の作品は『命がもどっていくさま』、此岸の作品は『命が産み落とされるさま』を表現している12)」と説明しており、正に日本の伝統的死生観を顕著に表象する概念芸術(コンセプチュアル・アート)だったと言える。
ここで興味深い点は、この池坊の作品はどちらも他者との協同作業により完成するものだったことである。つまり、両足院の《巡り――いのちが去り》では、最後の若松は池坊の示唆により鎌田東二が差して完成した。また、The Terminal KYOTOの《巡り――いのちが生まれる》は、花器である近藤高弘の《白磁壷――カタチサキ》(2021年)(図3)と組み合わされて完成した。これは、近代西洋美術が個人の美術家による完結を基本原則とするのに対し、連歌的協働を本質的要素とする点で日本の伝統的感受性に基づくものだったと言える。
なお、鎌田はさらに11月21日にこの両足院の《巡り――いのちが去り》の前で本尊に鎮魂能舞を奉納した(演者:鎌田東二・河村博重・由良部正美)。これは、芸術における宗教的要素を重視する点でやはり日本の伝統的感受性を生かしたものだったと言える。
また、近藤の《白磁壷――カタチサキ》は、焼成の過程で偶然に生じた割目を造形上の本質的要素とするものである。これは、高階秀爾13)や山本健吉14)が指摘するように、近代西洋美術の原則が人為による自然の一方的支配であるのに対し、それとは異なり人為と自然を協和させるものであり、その意味で人間と自然を同類同等と見なす日本の伝統的感受性の一つの反映だったと言える。さらに近藤は、両足院が日本に禅宗と喫茶を導入した栄西が創建した建仁寺の塔頭であるという文化的伝統に則りつつ、同じく11月21日に境内にある茶室臨池亭で自作の銀滴碗《波》(2015年)(図4)、掛軸《真なる金》(2021年)(図5)、陶像《鎮獣十二支》(2021年)(図6)を用いて茶会を催した。これも、芸術における宗教的・実用的要素を重視する点でやはり日本の伝統的感受性を生かしたものだったと言える。
これに加えて、もの派の関根伸夫の両足院における展示において、初期の絵画《位相》(1968年)(図7)からもの派の出発点である《位相-大地》(1968年)(図8)への展開が、表現の重心における「視覚的観念性」から「触覚的実在性」への転換であることが示された。そして、11月7日に京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで開催されたシンポジウム①「もの派の帰趨」において、その「触覚的実在性」の重視が自然を人間より下位の「材料」ではなく同類同等の「素材」と見なす日本の伝統的感受性に基づいていることが筆者により指摘された(登壇者:赤松玉女・小清水漸・吉岡洋・稲賀繁美・松井紫朗・近藤高弘・山本豊津・秋丸知貴)15)。
また、もの派の小清水漸の両足院とThe Terminal KYOTOの展示において、《位相-大地》(1968年)の《垂線》(1969年)(図9)への影響が、やはり表現の重心における「視覚的観念性」から「触覚的実在性」への転換であり、それが日本の伝統的感受性への開眼に繋がっていることが、同じくシンポジウム①「もの派の帰趨」において小清水及び筆者により確認された16)。そして、生活性を切り捨てないために厳格な台座を必要としない日本の造形的伝統を生かした、小清水の《雪のひま》(2010年)(図10)に至る「作業台」シリーズが、近代西洋美術の脱構築の点でジャック・デリダの『絵画における真理』(1978年)17)における「パレルゴン」批判よりも早く実践されていることが、同じくシンポジウム①「もの派の帰趨」において稲賀繁美により指摘された18)。
なお、11月21日に両足院で展示作品を前に開催されたシンポジウム②「宗教信仰復興と現代社会」では、人間の心身の健康においては宗教の果たす役割が大きいことが論じられた(登壇者:水谷周・島薗進・鎌田東二・加藤眞三・弓山達也・伊藤東凌)。また、11月23日に京都大学稲盛財団記念館3階大会議室で開催されたシンポジウム③「日本人と死生観」では、そうした宗教の中でも日本の伝統的死生観の持つ意義が大きいことが議論された(登壇者:やまだようこ・鎌田東二・広井良典・一条真也・秋丸知貴)。そして、2022年1月9日にZOOMで開催されたシンポジウム④「グリーフケアと芸術」では、宗教と共に芸術もまた人間の心身の健康において非常に有益であることが討論された(登壇者:鎌田東二・秋丸知貴・松田真理子・木村はるみ・大西宏志・勝又公仁彦・奥井遼)19)。
「現代京都藝苑2021」企画者兼事務局長として、本イベント開催に当たり厚い理解をいただいた、共催の両足院、The Terminal KYOTO、上智大学グリーフケア研究所、シンポジウム①「もの派の帰趨」共催の京都市立芸術大学、協賛の株式会社サンレー、一般社団法人日本宗教信仰復興会議、京都伝統文化の森推進協議会、協力の村井修写真アーカイヴス(村井久美)、京都大学こころの未来研究センター、豊和堂株式会社に心よりお礼申し上げたい。
図1 池坊由紀《巡り―いのちが去り》 |
図2 池坊由紀《巡り―いのちが生まれる》 図3 近藤高弘《白磁壷―カタチサキ》 |
図4 近藤高弘《波》 |
図5 近藤高弘《真なる金》 |
脚注
- ^今なお日本では、地水風火等の自然力の強い現れは自然神として崇められ(巨石や巨木等)、偉業を成し遂げた人間は人格神として崇拝されている(菅原道真、徳川家康、明治天皇等)。
- ^現代京都藝苑2015以前のモノ学・感覚価値研究会及びアート分科会の活動内容については、以下を参照。『モノ学・感覚価値研究(年報)』第1号~第10号。鎌田東二編著『モノ学の冒険』創元社、2009年。鎌田東二編著『モノ学・感覚価値論』晃洋書房、2010年。モノ学・感覚価値研究会アート分科会編『物気色』美学出版、2011年。
- ^高橋博巳『京都藝苑のネットワーク』ぺりかん社、1988年。
- ^ゲオルク・ジンメル「額縁――ひとつの美学的試み」『ジンメル・コレクション』北川東子編訳、鈴木直訳、ちくま学芸文庫、1999年。
- ^アンドレ・ジイド『藝術論』河上徹太郎訳、齋藤書店、1947年。
- ^谷川徹三『茶の美学』淡交社、1977年。
- ^大西克礼『大西克礼美学コレクション3 東洋的芸術精神』書肆心水、2013年。
- ^鼓常良『日本藝術様式の研究』内外出版印刷株式会社出版部、1933年。
- ^カール・グスタフ・ユング『自我と無意識の関係』野田倬訳、人文書院、1982年。
- ^エーリッヒ・ノイマン『芸術と創造的無意識』氏原寛・野村美紀子訳、創元社、2021年。
- ^鎌田東二『翁童論』新曜社、1988年等を参照。
- ^「華道家元池坊次期家元 池坊専好 活動の記録」『華道』日本華道社、2022年3月号、5頁。
- ^日本文化会議編『東西文化比較研究――自然の思想』研究社、1974年における高階秀爾の発言を参照。
- ^山本健吉『いのちとかたち』新潮社、1981年。
- ^この内容は、2015年2月28日に京都大学文学部新館第3講義室で行われた、関根伸夫と秋丸知貴による現代京都藝苑2015プレイベント対談「日本的感受性と日本近現代美術」において確認された。次の拙稿も参照。秋丸知貴「モノ学・感覚価値研究会アート分科会活動報告2015・『現代京都藝苑2015』を中心に」『モノ学・感覚価値研究』第10号、京都大学こころの未来研究センター、2016年、40-47頁。秋丸知貴「自然体験と身心変容――『もの派』研究からのアプローチ」『身心変容技法研究』第6号、上智大学グリーフケア研究所、2017年、76‐84頁。秋丸知貴「現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相―大地》(一九六八年)から《空相―黒》(一九七八年)への展開を中心に」『比較文明』第34号、比較文明学会、2018年、131-156頁。
- ^この内容については、次の拙稿も参照。秋丸知貴「Qui sommes-nous? ――もの派・小清水漸の一九六六年から一九七〇年の芸術活動の考察」『身心変容技法研究』第8号、上智大学グリーフケア研究所、2019年、118‐130頁。秋丸知貴「現代日本美術における土着性――もの派・小清水漸の《垂線》(一九六九年)から《表面から表面へ‐モニュメンタリティー》(一九七四年)への展開を中心に」『比較文明』第35号、比較文明学会、2019年、169-190頁。秋丸知貴「現代日本彫刻における土着性――もの派・小清水漸の《a tetrahedron‐鋳鉄》(一九七四年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に」『比較文明』第36号、比較文明学会、2021年、137‐162頁。
- ^ジャック・デリダ『絵画における真理(上・下)』高橋允昭・阿部宏慈訳、法政大学出版局、2012年。
- ^稲賀繁美『接触造形論』名古屋大学出版会、2016年も参照。
- ^各シンポジウムの記録については、現代京都藝苑2021公式サイトの「開催概要」を参照。
絶体絶命の淵に立ちて KOW(ミュージシャン・鎌田東二3rd.アルバム/プロデューサー・アレンジャー)
「絶体絶命」と題された鎌田東二の3rd.アルバムに制作が始まりました。このアルバムは2003年にリリースされた前作「なんまいだー節」から今日に至るおおよそ20年の間に、鎌田東二が作詞作曲した神道ソングのなかからベストと言える楽曲を網羅したものになります。
「絶体絶命」と題された鎌田東二の3rd.アルバムに制作が始まりました。このアルバムは2003年にリリースされた前作「なんまいだー節」から今日に至るおおよそ20年の間に、鎌田東二が作詞作曲した神道ソングのなかからベストと言える楽曲を網羅したものになります。
そもそも神道ソングとはなんでしょうか。鎌田東二が神道ソングを作り始めた初期における楽曲には、一度耳にすれば「これが神道ソングなんだ」とすぐに腑に落ちるような明快さがありました。例えば「神」や「君の名を呼べば」「弁財天賛歌」等はその好例と言えるでしょう。これらの楽曲の歌詞には、日本人にとっての神観、祈りの普遍性がストレートに表現されており、歌として直接「神」や「祈り」に触れるものが神道ソングであると、多くの方をすぐに納得させる魅力があります。
しかしもう一方には、宗教哲学者・鎌田東二の内面の吐露、問題意識の探求に関わる楽曲があり、さらに一歩も二歩も踏み込んだテーマが広がっています。そこには「人間にとって神とは、信仰とは何か」「祈りの本質とは何か」「今の時代の中で私たちは何を見失い、何を求めているのか」など、人間存在の本質に触れようとするものを多々見い出すことができるでしょう。この「人間存在の本質に触れようとする」という点が、今回、プロデュースとアレンジを担当する私の最大のモチベーションです。
グローバリゼーションがさらに進行し、ネットが世界を覆い尽くし、あらゆる情報が巨大サーバの中に集積化されていく現代社会は、即効性・合理性が最優先される世界でもあります。その中で「人間存在」はデータ化され、記号化され、曖昧なものは削ぎ落とされ、瑣末なこととして問題視されなくなる傾向にあるとは言えないでしょうか?物質主義時代の次に来るものは、本当に心の時代なのでしょうか?むしろ巨大サーバを中心としたサイバー官僚システムによって世界を運営する日が近づいているのではないでしょうか?人間のあくなき欲望の営みがこのまま続けば「人間存在の本質をわかりやすい記号だけに置き換えていく未来」の実現はすぐそこのように思えます。今回のコロナ騒動はその前駆をなすものとして捉えることもできるでしょう。そんな状況下にある今の世界において「人間存在の本質に触れようとする」ことは、人間が人間であり続けるために、ますますその重要度を高めているのです。今回のタイトル「絶体絶命」は、そんな人間世界の淵に立ち、ここから飛び降りるか、踏みとどまるかの瀬戸際にある、私たちの「今」を表現しているのです。
このように強い時代的危機感に立ち作曲作詞された鎌田東二の神道ソングによる3rd.アルバムを、私はその内容にふさわしいハードエッジなアレンジと演奏で形作っていくつもりです。
「かんながらたまちはえませ」「犬も歩けば棒に当たる」「北上」「夢にまで君ゆえに」 「探すために生きてきた」など、この20年の代表作10曲以上を収録します。
1st.アルバム「この星の光に魅かれて」を私がプロデュースした2001年、日本人の多くはまだ今よりは未来に対して楽観的だったように思います。音楽は時代を反映するもの。全ての真摯な表現がそうであるように、今の時代の危機感と絶体絶命の淵に立ち、絶える事なき祈りを胸に、多くの音楽仲間と友人のサポートを得て、この3rd.アルバムを完成させる決意です。
ご支援をよろしくお願いします。
宗教と信仰の差異? 水谷 周
タイトルにある二つの言葉には、何も変わったことはありません。誰でもが使っているし、筆者も普通に使ってきました。ところが最近、いろいろの場面でそれら両者にはかなり異なった重みが感じられるなと思わされました。そしてその差異はそれなりに大きな問題を含んでいると思われたので、改めてここに記すことにしました。
タイトルにある二つの言葉には、何も変わったことはありません。誰でもが使っているし、筆者も普通に使ってきました。ところが最近、いろいろの場面でそれら両者にはかなり異なった重みが感じられるなと思わされました。そしてその差異はそれなりに大きな問題を含んでいると思われたので、改めてここに記すことにしました。
一つの差異は、信仰が宗教の教義を信じることとするならば、宗教はその信仰以外にも儀礼、慣習や歴史などを含む、より広範な内容を指していると了解されます。そうすると宗教という言葉の方に、信仰よりも大きく重い意味合いが自然と与えられることになります。この事情は分かりやすくて、これ以上の説明は不要でしょう。
もう一つの差異は、宗教というと宗教学があり、他方信仰には信仰学が存在しないという点があります。それは実証に基礎を置く諸学の立場からすれば、当然の差異でしょう。信仰というこころの中の問題は、宗教学では扱いにくい代物ということになります。そこで信仰を巡る諸問題は、信仰論と称されるわけです。宇宙学という名称はなくて、宇宙論と呼ぶのと同様です。この第二の差異も、以上だけなら分かりやすくで、これ以上の説明は不要でしょう。
ところがこの第二の差異とも関係して、避けて通れない問題が付随しています。それが宗教と呼称する時ほどには、信仰と呼称する時は重みが感じられないという、冒頭に挙げた点です。これが問題であるという理由は、ただ用法上の印象として軽重の差があるというだけではなく、宗教について様々に考えているほどには、信仰に関しては頭が回っていないのではないかということです。つまり信仰に関しては、それほど思考もしていないし、時間もかけていないとすれば問題があるということです。
信仰は心の中の問題であるだけに把握しにくいし、把握したとしても個人的な側面が主となるので、他者とやり取りすることは限定されます。そこであまり思案のテーマになっていないものと了解されます。深みに踏み込んでいない信仰という事柄について語るときには、多くの熟慮と学習を重ねてきた宗教よりも、軽く聞こえるのは自然な現象です。しかもそのことに本人も気付くことなく、済まされてしまいます。
以上の指摘に関する具体策としては、信仰論の活発化ということになります。同時にその前提として信仰に宗教の本体として焦点を当てるべきで、その把握と理解にこそ主力が注がれて良いと改めて認識することです。このような指摘は少なからぬ人たちの思考を乱し、迷惑千万だと言われても仕方ありません。ただ少なくも一考する余裕は持ってほしいところです。信仰復興の原点でもあります。
写真展「3.11東日本大震災から10年の軌跡」を終えて 須田 郡司
2021年12月2日から12月8日まで、港区南青山にあるgallery5610にて須田郡司写真展「3.11東日本大震災から10年の軌跡」を無事に開催することができました。その間、多くの方々に展覧会にご来場いただきました。また、会期中に二つのトークイベントを行いましたが、こちらも盛況のもと終えることができました。
12月3日は、島薗進氏、鎌田東二氏と須田郡司による「東日本大震災が問いかけたもの〜ケアのちからと自然のちから」をテーマにトークライブでは20人もの方々にご参加いただきました。12月5日は、音楽家のラビラビ、鎌田東二氏と須田郡司による「いのちの呼ぶ声を聴く」をテーマにトークライブでは15人もの方にご参加いただきました。
二つのトークライブでは、東北被災地での取材体験、東北への思いなどをお話しすることができたと思っています。
gallery5610私自身、巨石写真以外の写真展は、本当に久しぶりでしたが、今回5つの章にテーマを分けて展示しました。その内容を簡単に説明いたします。
一章 3,11から2ヶ月後の東北
東日本大震災が発生した3月11日から約2ヶ月後の5月2日、JR仙台駅で宗教学者の鎌田東ニ氏と合流し、東日本大震災後の東北被災地域を巡りました。仙台駅、浪分神社、荒浜、宮城県庁で行われた「心の相談室設立について」の記者会見、鼻節神社、七ヶ浜町、塩竈神社、石巻市の光景、女川町、雄勝町、葉山神社、石峰山の石神社、釣石神社、気仙沼、釜石市、大槌町、宮古などの光景。震災後の生々しい光景は、場所によっては見るのも心苦しいものがあります。まるで戦争の後のような、痛々しい光景は、見る人の目も背けたくなるような写真もあります。しかし、震災後の光景を忘れないためににもあえて記録として展示しました。
二章 復興への祈り
震災後、さまざまな復興へのイベント、お祭りが行われました。2011年12月17日、宮城県七ヶ浜町子育て支援センターにて音楽家のラビラビは「東北にアイとマニーを届けよう!part2」として被災者へのライブ&感・音・即興Workshopが行なわれました。私は、震災後9ヶ月後の2011年12月、石のカレンダーを届ける支援で宮城を訪ねました。その際、七ヶ浜町で行われていたラビラビのライブに駆けつけることができました。彼らのライブ&感・音・即興Workshopは、現地の方々に大きな希望と喜びを与えたと感じました。
2012年5月5日、宮城県石巻市雄勝町にある大須八幡神社祭典にて復興祈願のお祭りが行われました。被害の多かった雄勝町の中で、大須地区は高台にあったため、比較的被害は小さかったのです。この大須八幡神社での祭りには、地元以外の県外の多くの方々も駆けつけました。震災の復興への祈りに満ちた祭典が行われたのです。
2013年3月10日、宮城県気仙沼の地福寺本堂にて、「東日本大震災メモリアル、未来(明日)に向って」という祈りのイベントが開催され、各方面のアーティストが歌い、奏で、舞、あかりを灯し、亡き方々の鎮魂に真心をたむける催しが行われました。その他、石巻市の仮設住宅で行われた「モデルとして雄勝の再興を考える」シンポジウムが行われました。
三章 虎捕山・山津見神社と放射能
福島県飯舘村にある山津見神社は別名虎捕山・山津見神社。 虎捕山の山頂は巨石群が多く、山頂付近に山津見神社奥宮本殿が鎮座しています。 聖なる山ですが、登山道の放射線量は高い状態です。また、虎捕山仮置場には、震災直後からたくさんの除染土がありましたが、この10年でそれらは全て無くなっていました。
2014年5月、東京電力福島原発から近い浪江町にある清水寺を林住職のご案内で訪ねました。当時は、帰宅困難地区に指定され、放射線量はお寺で3.65マイクロシーベルト、お寺の前の道路で、6,28マイクロシーベルトもあったのです。
2021年11月、林住職の許可を得て清水寺を訪ねました。今、清水寺がある地域の避難指示を解除されていて、寺院の修復、墓地や霊園の整備工事が行われていました。放射線量は、寺院付近で0.38マイクロシーベルト、駐車場で0.96マイクロシーべルトほどありました。
東京電力福島原発事故の影響は、10年たった今も危険な状況にあることは変わりません。
四章 東北の石の聖地
私は、聖なる石・石の聖地をライフワークとして撮影をしています。四章では、私自身、最も興味のある東北地方の石の聖地をテーマに展示しました。、鹿島御子神社の要石(南相馬市)、現代イワクラ(丸森町)、石神社(石巻市)、石峰山の神籬(石巻市)、釣石神社(石巻市)、大島神社の磐座(気仙沼市)、道祖神(気仙沼市)、乙姫窟(気仙沼市)、天照御祖神社(大船渡市)、力石(山田町)、浄土ヶ浜(宮古市)、つりがね洞(久慈市)、夫婦岩(久慈市)、くじら石(八戸市)、蕪島(八戸市)など、東北には実に多くの石の聖地があります。
五章 防潮堤という壁
3.11から10年。東北を巡って、一番大きな変化は防潮堤の築造です。そして、今でも造り続けられています。津波を防ぐという大義名分の元、また復興予算を消化するため、各地で作られていますが、果たしてこの巨大な壁で、津波が防げるかは疑問です。防潮堤によって、海岸線で海が見えない場所が増えていることを危惧します。海が見えることで、漁師の人たちは、自然を感じていたからです。この防潮堤によって逆に、失われてしまうものがあるのではないかと思うのです。
今回の写真展に関して、ある友人がこんな感想を言ってくれました。東日本大震災の写真展というと、あまり思い出したくない、怖いイメージがあったそうです。実際、震災後2ヶ月後の風景は、自身も怖さを感じながら撮影しました。ただ、5つの章立を見て行くうち、特に四章の東北の石の聖地を見ると、どこか希望のようなものを感じたと言ってくれたのです。その言葉に、私自身も救われたように思います。
今回の展覧会に来てくださった何人かの方は、実際に東北へボランティアで訪れていた方が数人いました。彼らは、その時の体験談や、今の東北への思いなどを語ってくれました。10年一昔ではありますが、忘れずに語ることが大事だということを実感しました。それは、単に、東北の被災が過去のものになったのではなく、この日本列島はいつ何時、あらゆる場所で災害が起きても不思議ではないという現実があるからです。
防潮堤という現実も、賛否両論があります。これが作られたということを、今ここを認識しながら、今後、どうして行くのかも含めて考え、行動しなくてはならないと思っています。
今後、鎌田東二氏とのトークイベントを含めた写真展を金沢市のギャラリー椋(4/30~5/5)、那覇市の沖縄県立博物館・美術館県民ギャラリースタジオ(7/20~24)、10月頃に御殿場、ありがとう寺(町田宗鳳住職)にて開催する予定です。
尚、今年の展示は、東北被災地の写真と、日本と世界の石の聖地の写真の二本立で開催する予定です。今、コロナ禍で先が見通せない世の中ではありますが、地道に展示とイベント・パフォーマンスを続けてゆきたいと決意しています。
今回、東北被災地調査と写真展開催の経費、東北被災地訪問記録集の作成に関しまして、助成をしてくださった一般社団法人日本宗教信仰復興会議に深く感謝申し上げます。
注:観客の一人としての感想は、12月3日のトーク・ショーに参加してよかったということです。参加者全員惹き付けられるように、軽妙なトークに聞き入っていました。また会場内の巨石の写真に見入り、写真家須賀郡司氏が若い頃より自分の裸体の映像を取りその存在・本質を見極めようとされてきたことから始まり、そのような存在・本質究明の求道の精神が現在の巨石探索につながっている解説も分かりやすく、感動を与えるものでしいた。いずれは世界の巨石シリーズの映像を通じて、思索と分析を博士論文にまとめられる構想も紹介されました。とにかく、貴重で有意義なイヴェントであったと、筆者の率直な感想を申し添えます。 (水谷 周)
二つの「幾山河」 水谷 周
以前の拙稿「「祈りの日」を思う」の最後には、自作の歌を取り上げさせていただきました。恥ずかしながら、感謝をする気持ちから恵みを授かるという因果を示しているので、文脈になじんでいると思われたからです。しかし文字通りお断りしたように、その出初めの「幾山河」は、人まねです。今回はこの辺りから始めます。
有名なのは、若山牧水(1885‐1928)という歌人のものです。
「幾山河 こえさりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく」
何とも心寂しい、もの悲しい情景が目に浮かびます。かれは中世の西行のような、旅が人生という歌人でした。そして行く先々で多くの寂しさを歌ったのでした。次のは故郷の宮崎で歌ったものです。
「ふるさとの 尾鈴の山のかなしさよ 秋もかすみの たなびきて居り」
そこで前の歌に戻りますと、筆者の拙稿に記したものと、二つの「幾山河」があることになります。このようなことを述べている理由は、それら両者に異なっている点があって、それは筆者としては読者方々に明確にしておきたい気持ちに駆られるからです。その差異というのは、この世の寂しさと、あの世の有難さと言ってもよいでしょう。しかしこれだけでは、いったい何を言おうとしているかは、ますます闇の中ということになるでしょう。
前者のこの世の寂しさは、あまり説明は必要としないと思われます。われわれが日常的に見聞きするケースは多々あるからです。それに比べると、後者のあの世の有難さは書き込む必要があります。この有難さというのは、この世のものとは異なって、寂しさや悲しさや、苦しみや痛みが有難いというのです。何とも逆説的と思われるかもしれませんが、あの世的にはそれらの苦難はやはり自分に与えられた定めであり、定めを与えていただいたことは、どう考えてもやはり恵みであり、それは感謝の対象になるという仕組みが説かれるということです。浄土教で有名な妙好人は、朝から晩までひたすら「ありがたや、ありがたや」と、繰り返していました。
こうなると災害も有難いし、病苦も有難いのです。他方、もちろん普通に言うところの幸福のさまざまな恵みも有難いことは間違いありません。ですから、この辺りのバランスは失念しないで、苦難の方がより有難いと言っているわけではありません。もっと極端に言うならば、死さえも有難いのです。昔、山中鹿介(しかのすけ、1578年没)は「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と言って祈願したそうです。
こうして定めを与えてもらったのは、何とも感謝、感謝です。それに一抹の文句もなければ、不満もありません。筆者流に解釈すれば、
「幾山河 越え行く日々の ありがたさ わが身と心 慈衣につつまれ」
ということになるのです。
もちろんこれでは、文学としての風情も感性もないと言われればその通りです。しかしあの世をこの世と同時に生きて、そしてそれらを両足の置きどころとする信仰の立場からすると、上記の歌いなおしをどうしても示したくなるのです。それが分岐点になっているとも言うべきポイントだからです。またそうすることで、信仰の心境と展望が明らかになれば、またまた感謝、感謝です。
随筆ー「祈りの日」を思う 水谷 周
大きな悲しみの日はとかく記念日になります。終戦記念日、大震災記念日、あるいはニュー・ヨークの9.11記念日などなど、枚挙に暇がありません。筆者が自然と思い至ったのは、そういった諸記念日を統合するような日があってもいいのではないかということです。それを今仮に「祈りの日」と名付けましょう。その日には、平和、安全、そして感謝の気持ちをすべて込めつつ、全員で祈りを捧げるという、人としての原点を取り戻す行為を共にしてよいのだろうと思います。
このHPの書籍欄でもよく紹介された鎌田東二著『ケアの時代 「負の感情」とのつき合い方』を拝読して、なるほどと思わせられました。日本という国に関しては、実に多くの国家論や日本人論などを見てきたつもりですが、これほどまでに「悲」に包まれた国柄であったとは、ほとんど考えたこともなかったからです。しかし頭を巡らせると、本当に悲惨さの連続で、その焼け野原からよくも立ち上がってきたという気持ちを誰しも持たされます。しかもそれが多くの文学作品や芸術にも浸透しているという指摘は、説得的でした。
他方、同氏と筆者が共著という形でこの9月に刊行したのが『祈りは人の半分』という一書です。これも本HPに紹介記事が掲載されています。人間は想像の力を天賦の才覚として授けられていますが、そのために希望を持ったり、期待に沿わない場合には落胆したりするように創られています。こうして自然に誰もが持つその願望は祈りであり、それがまとまれば信仰に他ならない、というのが、同書の趣旨です。
以上の二書は期せずして、互いにかみ合った内容になっているということを最近はますます強く思わせられています。というのは、「負の感情」という悲しみは、人の期待に沿わない場合ですが、それは日本人だけではなく、人間には付き物だということにもなります。想像し、願い事をし、喜び、期待外れには悲しむというサイクルは、人間の生涯を貫く鉄則です。そこでは人の半分として、常に「祈り」が捧げられています。
こう考えてくると「祈り」という営みは、今の日本で見なされているよりはるかに大きな機能であり、社会的な意味も持つ重要な側面として扱われるべきだという認識に到達することになります。それは物質、科学、理性という近代合理主義の諸側面と対立するものではなく、あるいは否定するものではなく、それらと一体であり調和しつつ、それら諸力の総合として働きます。つまり人として当然な姿に戻るということになるのです。さらに言い換えれば、それは全き姿の人間復興です。
大きな悲しみの日はとかく記念日になります。終戦記念日、大震災記念日、あるいはニュー・ヨークの9.11記念日などなど、枚挙に暇がありません。筆者が自然と思い至ったのは、そういった諸記念日を統合するような日があってもいいのではないかということです。それを今仮に「祈りの日」と名付けましょう。その日には、平和、安全、そして感謝の気持ちをすべて込めつつ、全員で祈りを捧げるという、人としての原点を取り戻す行為を共にしてよいのだろうと思います。
もちろんその「祈りの日」は超宗教的で、超政治的で、ただひたすらに人間的で、原点的であるだけです。このような日はまず日本で現実味のある話として考案し、提案されてよいのでしょう。しかし将来的には例えば国連主導の世界的な規模に広がっても何の遜色もないだけの根拠があります。それはしきりに言われる持続可能な開発目標SDGsの推進とも連動します。
本文をここまで読まれた読者はほとんど必ず、何という夢うつつだ、戯言を、という印象を持たれても驚きではありません。夢を持って、それを語ることも少なくなった今日この頃ですので、敢えて批判を覚悟の上で記した背景です。
最近、人まねで下手な歌を詠みました。
「幾山河 越え行く日々の ありがたさ わが身と心 慈衣につつまれ」
何処でも(幾山河)、いつでも(日々の)感謝、感謝、そして自分の身も心も、慈悲の衣につつまれているようなものだ、という意味です。それはこうありたいという願いであり、祈りでもあります。このような厚かましい勝手な祈りも、「祈りの日」には許されます。各自各様の、祈りを考案するのは大きな楽しみであり、希望が膨らみます。それは自分を見直す機会にもなります。皆様も、自分の「祈りの日」に一度試されるよう、誘いたいと思われることです。
D・H・ロレンス『死んだ男』(1931年)と折口信夫『死者の書』(1939年)の関係性 鎌田 東二
D・H・ロレンスの『死んだ男』(1927年頃作、1931年出版、1936年日本で翻訳出版)と折口信夫『死者の書』(1939年作、1943年出版)とは関係があるのではないか? 折口信夫はロレンスの『死んだ男』を読んで大いに触発され、日本版『死んだ男』として折口信夫の代表作と目される『死者の書』を書いたのではないか? もしそのような指摘をすでに行なっている人がいたら、ぜひ教えてほしい。
最近、D・H・ロレンス(1885‐1930)に関心を持って、調べ始めた。
きっかけは、第82回身心変容技法研究会で同志社大学神学部教授の関谷直人さんと話をしていた際、D・H・ロレンスが『死んだ男(The Man Who Died)』という小説を出していて、死んで蘇って女性とセックスをして子どもをもうけるという内容だと聞いたからだった。
もちろん、『チャタレイ夫人の恋人』(伊藤整訳)の作者として名前は知っていて、学生時分に小説も読んだことがあり、それなりに面白かったが、心に響くというほどではなかった。日本で起きた、わいせつ性が問われた「チャタレー事件」のこともある程度知っていたが、読んでみて、どこがどのようなわいせつ表現なのか、また表現の自由とのかねあいについてもピンとは来なかった。
要するに、D・H・ロレンスも伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』も、わたし自身の人生に痕跡を残すほどの作家でも作品でもなかったということである。
ところが、最近になって、2つの補助線(一つが関谷直人同志社大学神学部教授、もう一つが吉村宏一同志社大学名誉教授)が引かれ、俄然、D・H・ロレンスに興味を持った。
第一に、『死んだ男』。これを、昭和11年(1936)2月5日昌久書房発行の織田正信翻訳で読んでみた。そしてたまげたのである。
何にたまげたか。イエスが蘇って女性とセックスして子どもをもうけるという、『ダ・ヴィンチ・コード』のような反カトリック的かつグノーシス主義的なモチーフもそれなりに興味深かったが、何よりも子どもをもうける相手というのがエジプトとのイシス神殿に仕える巫女だったことだ。これにはしんそこ驚いた。
つまり、D・H・ロレンスは、一神教の革命家イエスを蘇らせて、多神教の根拠地のエジプトのイシス・オシリス信仰と交配させたのである。イエスと神殿巫女との交わりも、それだけでキリスト教にとっては大スキャンダルな事態の表現であろうが、その身体レベルの交合のみならず、信仰上の交合とも言えるイエスとイシス信仰との交わりを設定した点で画期的とも革命的とも反逆的ともいえよう。したがって、さまざまな評価も批判も可能であろう。
『死んだ男』は二部構成で、第一部では、蘇った男は、イスラエルの近くの農家らしい夫婦の家にかくまわれることになる。その第一部の最後の方で、死んだ男=甦った男=イエスは、鶏の生態を通して性と生命の深奥にあるものを見出す。そして、「お前は自分の領土と、お前の肉体にそぐう雌を見つけた」(前掲同書50頁)との内なる声を聴く。
第二部では、ダマスカスから西に向かって歩き続けたその男が、フェニキアのシドン(現在のレバノンのサイダ)に行き着き、そこで、7年間、「探求のイシス」を祀るイシス神殿に20歳から7年間仕えてきた27歳の神殿巫女と出会い、結ばれることになる。その神殿巫女は、元々父がローマ帝国のシーザーやアントニオと懇意にしており、親交があったが、シーザーの死後ローマ皇帝になるアントニオと交わってもまったく何も感じることがなかった、言わば不感症の女性である。
そこで、彼女は、「世に類稀な女人は、再生の男を待つものぢや」(同62頁)との予言的な言葉のままに神殿巫女を続けて来て7年、終に、その運命の男「再生の男」と出逢うことになったのである。こうして男はイシスの神殿で神殿巫女の女人と交わるのだが、その前にこのように思う。「わしは熱狂の彼女を、女性の神秘に燃えた彼女を、独り居らせねばならぬ。」(同92頁)と。
これは、エジプト神話的文脈においては、「探求のイシス」が死んだ夫オシリスの肉片を探し求めて「再生」せしめるイシスの秘儀の物語と重なる。その秘儀の結果が、新たないのちの誕生であった。
彼女は男の「傷」を癒し、真に肉身を蘇らせる。その時男は自覚する。
「彼は静かに、おだやかに、全くの間であつた彼の生の深底から、何ものかゞ生まれ出るうごきを感じたのであつた。暁だ、――太陽の誕生だ。彼の内部の真の闇から、一つの新らしい太陽が、身内に登りはじめた。おそろしい希望に身をふるわせて、日の出を待つてゐた、……『今こそ過去の自我を脱した、私は新なある者だ……』」(同101頁)
そして死んだ男は、「われ甦れり!」(同102頁)と、生の甦りの頂点でイシス神殿の巫女と交わった。男は言う。「これこそ大いなる償ひ、――交感にひたることこそ。灰色の海と雨、――濡れた水仙と我が待つ女人、――眼に見えぬイシスと太陽との交流・合致」(同105頁)
こうして、子どもが生まれることになるのだが、それにより、死んだ男=甦った男=再生の男=イエスは去っていくことになる。このローマの怪作『死んだ男』の最後は、次のような死んだ男=甦った男の言葉で終わっている。
「わしはわしの生命と復活の種子を蒔いて来た。そして現世の選ばれた女人の上に、永遠の交感を及ぼして、わしの肉身に彼女の香を薔薇の精のやうにつけてゐるのだ。彼女はわしの生命の中核にある、こよなく尊いものだ。黄金色の肌なめらかな蛇が、またしてもとぐろを巻いて、わしの生命の樹根に眠つてゐるわ」(同112頁)
「小舟よ、わしを運べ。明日も亦日が輝るわ」(同112頁)
いやはや、D・H・ロレンスという作家は、なかなかの怪人アウトサイダーのようである。
実は、京都の我が家の近くに日本ロレンス協会の設立者の一人で、ロレンス研究者の第一人者の一人の同志社大学名誉教授の吉村宏一先生が住んでいる。その先生が毎日我が家の前を通ってよく散歩され、たまに話をすることがあるのだが、今日、我が家に寄ってもらって、『死んだ男』とロレンスについて、小1時間ほどいろいろとお話を伺ってみた。これが第二の補助線である。
1885年生まれのロレンスが、労働者階級の出身で作家となり、恩師の夫人のドイツ人貴族の女性フリーダと駆け落ちして、イタリアに逃亡し、エジプトやオーストラリアやアメリカなど世界各地を旅して回り、その間、推定では1927年に『死んだ男』を書き、最後に1928年に『チャタレイ夫人の恋人』を書いたことだろうということもだんだんとわかってきた。
つまり、『死んだ男』はロレンス最晩年の遺作に近い小説ということになる。吉村宏一先生にいろいろと訊ねてみると、ロレンスが独自の生命主義思想を持ち、ニーチェやドストエフスキーの影響を受けていたということも見えてきた。
なるほど、なるほど。確かに、『死んだ男』の主人公はニーチェの「超人」と似ている。キリスト教的終末論というよりも、ギリシャ的永劫回帰論に近しいものがある。このロレンスのキリスト教観というのも、異教的彩りを帯びた大変スキャンダラスなものにもなり得る独自のものであったようだ。
そのあたりも、さらに深掘りしたいところだが、わたしの目下の関心事は、実は、折口信夫がこのD・H・ロレンスの『死んだ男』を読んで、『死者の書』を書いたのではないか、という疑問であり、問いである。
言葉は悪いが、折口さん、あんたの『死者の書』はロレンスの『死んだ男』のパクリじゃないの! という問いである。
調べてみると、昭和11年に『死んだ男』の翻訳が織田正信訳で出ている。そして、折口信夫の『死者の書』が最初に『日本評論』に発表されたのが昭和14年(1939)1~3月号で、その後昭和18年(1943)年に青磁社から単行本として出版されたのだ。折口信夫が『チャタレイ夫人の恋人』などで評判を呼んでいるロレンスのこの『死んだ男』の翻訳を読んだ可能性は否定できないだろう。
そして、彼はエジプトの「死者の書」のイシス・オシリス神話と日本の古代史と中将姫伝説を踏まえ、日本古代の大津皇子と藤原南家の郎女との魂の交合との物語として『死者の書』を書いたのではないか。このように推測したのである。
折口信夫の『死者の書』がイシス~オシリス神話を踏まえていることは、すでに先学の研究によって明らかだが、しかし、折口のその発想のより直接的なインスピレーションとアイデアのソースは、ロレンスの『死んだ男』にあったのではないかというのがわたしの推測である。両者の共通点として、
①死者(甦った男)と巫女との交感が描かれる点(『死んだ男』ではイエスとイシス神殿の巫女、『死者の書』では大津皇子=滋賀津彦と藤原南家の郎女、また滋賀津彦は処刑される前に大織冠藤原鎌足の子の耳面刀自との間に子どもを欲していた)
②どちらもが太陽神格を持つこと(『死んだ男』ではオシリス~イエス・キリストの太陽神神格、『死者の書』では天若彦と阿弥陀仏との太陽神仏・光の神仏)を挙げることができる。
また、両者の相違点として、
①死者と巫女との交感が、『死んだ男』では肉身の交わりと妊娠につながること、『死者の書』では霊的交感としてそのヴィジョンが山越えの阿弥陀像の当麻曼陀羅として織られること。
②また、『死んだ男』では男が流浪の旅に出、『死者の書』では滋賀津彦は肉身では現実化せず霊的な面影(俤)としてのみ南家の郎女の霊感の中に現われること、などが挙げられる。
ちなみに、『古事記』でオシリスーイシス神話に対応するのが兄神たちに二度も殺されて甦るオホナムヂ=大国主神であるが、折口の『死者の書』十には、大国主神=八千矛神の歌う長歌「八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志(こし)の国に、美(くわ)し女(め)をありと聞かして、賢(さか)し女(め)をありと聞(きこ)して……」とあり、『古事記』の中にエジプト神話と通じる神話素があることも興味深く、スサノヲ~大国主神の出雲神話とエジプト神話の類縁性をどう捉えるかも折口信夫だけでなく、異教的な習合の様相に関心を持っていたD・H・ロレンスにも通じる問題意識であったと思うのだ。
わたしも長らく折口信夫の『死者の書』に魅了されてきた一人であるが、その発想の先鞭者にD・H・ロレンスがいたということは、もちろん、折口さんの不名誉でも何でもなく、彼の発想のきっかけや源泉と、それをいっそうオリジナルな形に練り上げていく彼の文学的想像力の特徴と凄みを改めて感じさせてくれるよい機会となった。
わたしはこの推測を早速吉村宏一先生にぶつけてみたが、先生の反応は「ようわからんけど、おもろいな」という感じであった。その可能性はある。ないわけではない。そこで、もうちょっとこの推測を確証づける証拠を探してみよう、ということになった。
それが、今日の先ほどの話である。
D・H・ロレンスの『死んだ男』によって折口信夫の『死者の書』が甦り、わたしの中の世界神話熱が再度大爆発し始めたのである。
「信仰をもつ医療者の連帯のための会」の発足の経緯について 加藤 眞三
2018年10月28日に第1回「信仰をもつ医療者の連帯のための会」年次大会が開催された。この会は、2016年2月より企画し10回余りの世話人会をもち、第1回の全体集会をもつことになった。「信仰をもつ医療者の連帯のための会」はわたしにとってのライフワークになるものであり、この会を起ち上げた経緯について述べたい。
On October 28, 2018 the 1st annual meeting of “An Association for Solidarity of Faithful Medical Professionals” was held. Since the beginning of February 2016, we have meetings of organizing committee, the first general annual meeting was held. I believe that the “An association for solidarity of medical professionals with faith” will be my life work. In this issue, I would like to describe the background of the association.
人間に対する医療とは
わたしにとっての医療を振り返ってみると、①「肝臓病教室」、②「AAメッセージ」、③「慢性病患者ごった煮会」、④「公開講座「患者学」」を開催してきたことが他の医師にはない大きな特徴である。これらを開始したそれぞれの時期において、現在の医療に欠けているものは何かを考え、それをどう解決するのかを求めて、行動してきた結果である。
65歳となり大学の定年退職を迎えた時点から振り返ってみると、それぞれの時点で目指してきたものは、①情報の提供、②スピリチュアル・グロース、③スピリチュアルケア、④医療者と患者の対話を推進することであった。そのことは、患者を単なる動物の一種とみなしてヒトに対して行う医療ではなく、言葉と魂をもつ人間に対して提供する医療はどうあるべきかを医師として悩み考えてきたことが底流にある。
科学的な医療から、医学の本流から外れること
大学病院に身を置き科学的な医療を一歩でも前進させることを最優先すべきと考えてきたわたしにとって、医学の本流からは外れていく一つの大きな転機があった。
それは、父親の代から信仰し、受け継いできた宗教の大本が、1997年から脳死反対運動を展開したことに発する。それまでのわたしは、大学病院で消化器内科学教室に入局し肝臓を専門とする内科医として勤務し、移植医療に関しても周辺で働いてきたが、脳死についてしっかりと考えた機会はなかった。脳死者から提供された臓器移植によって助かる人がいるのであれば、それは良いことではないかという漠然とした考えに支配されていた。だが、大本からの脳死反対運動が始まり、改めて脳死とは何かについて自分自身で調べてみることにした。すると、脳死は全脳の死ではないことに気付かされたのだ。
脳死の定義による全脳の不可逆性の機能停止の状態にあるならば、体温の恒常性は保たれないし、抗利尿ホルモン(ADH)も放出されないので尿崩症になり血圧も維持はできない。ところが、脳死を判定するときには深部温が32℃以下では除外するとしており矛盾が生じる。また、尿崩症になると大量に尿が出て血圧が維持できないはずなのに、血圧が保たれている状態で脳死と判定している。すなわち、脳死は定義と診断基準に矛盾が生じているのだ。それ以外にも様々の問題点はあるのだが、脳死臓器移植とは、結局死に直面している死の間際の患者を早々に見放して、その臓器を提供させ利用するということで、患者のいのちを天秤にかけてしまう行為であることが明瞭に解ってしまった。
このことは、わたしにとって衝撃的なことであったが、脳死臓器移植の構図が理解できてしまうと、その時点で脳死反対運動に参加することに躊躇することはなかった。大本の内部の集会で話したり、大本が主催する講演会で一般市民に脳死について講演したり、日本の脳死反対運動について英語の論文として発表するなど、脳死臓器移植に対して反対する活動を開始した。
今回、脳死反対運動について振り返ろうと、Googleで「脳死反対運動」と検索してみると、7万件以上の記事がでてくるが、わたしのブログの記事が第一位になっており、Wikipediaや臓器移植に反対する市民団体の記事よりも上位に置かれていることに驚かされた。
医学の本流を外れて得たもの
脳死反対運動へ参加することは、わたしがもはや医学界の中で本流にいることはできないことを意味した。しかし、そのことによりわたしが得たものはより大きいものであった。なぜなら、大学病院に籍を置く内科医でありながら脳死反対を唱えていることがわたしを特徴のあるものにしたからだ。このことが、わたしらしい道を歩むきっかけを作ってくれたことになる。
スピリチュアリティをテーマとするある講演会(神道国際学会)に招かれ、わたしは「脳死について」話をする機会を得た。そこで知り合った鎌田東二氏(元京都大学教授、現在上智大学教授)に誘われて、2003年6月町田宗鳳氏(元東京外国語大学教授、元広島大学教授)が主宰する「いのちの研究会」に参加させていただいた。「いのちの研究会」には、島薗進氏(元東京大学教授、現在上智大学教授)、上田紀行氏(東京工業大学教授)、粟屋剛氏(元岡山大学教授)などがメンバーとして参加しており、2ヶ月に一度の集会をもち濃厚な議論をすることができた。ずっと医学部の中で過ごしてきたわたしにとって、ここで出会った方々、人文科学系の有名な学者との出会いは、新鮮でわくわくするような体験であった。
2004年、東京大学教授であった島薗進氏より、本郷のキャンパス内で開催する講演会のお知らせをうけた。その講演会で、講演者を日本に招き通訳をされていたキッペス神父と名刺交換をすることになった。キッペス神父は日本の医療にスピリチュアルケアが欠けていることを憂い、スピリチュアルケアを日本で普及させたいと運動し尽力してきた方である。講演会の数日後に、久留米市の教会からキッペス神父からメールが送られてきた。わたしと会ってゆっくり話しがしたいと3つの候補日があげられていた。3候補日の中で唯一予定が入っていなかった日にキッペス神父と会うことになった。新宿の料理屋で会食し日本のスピリチュアルケアについて話しあった。
別れる間際に、キッペス神父は、「今日は私にとって特別の日であった。司祭になりドイツから派遣され神戸港に着いたのが今日だった」とつぶやかれた。実は、その日はわたしにとっても特別の日であり、わたしの誕生日であったのだ。しかも、後日になって知ることになったのだが、キッペス神父が紀伊水道を北上して神戸港に上陸したのは1956年であり、同じ年に、わたしは紀伊水道の西、徳島の地に生を受けたのだった。2つの魂が50年ぶりに再会し日本のスピリチュアルケアについて話をする機会をえたのだ。魂の兄ともいうべきキッペス神父の下で、その後スピリチュアルケアについて学ばせていただくことになった。
キッペス神父と出会った直後、慶應義塾大学看護医療学部の山下香代子教授より看護医療学部の教授に欠員ができるので、こちらに来ないかとの誘いがあった。山下教授とは大学内の終末期医療の疼痛コントロールの研究会などで知り合っていた。通常、教授の選考には半年以上の時間をかけておこなうのだが、急な欠員の発生のため2004年の年末から2―3ヶ月という短い期間の中で決めなければならないことになったというのだ。そんな縁で応募することになったのだが、選考委員会での面接をうけ、2005年4月から看護医療学部の教授になった。
看護医療学部では、慢性期病態学と終末期病態学という医学部にはない科目を担当することになった。医学部では臓器別に、専門分化された学問体系のもとで学ぶが、看護医療学部では慢性病・終末期病という分類がなされており、病気をもつ人を全体としてケアをするという医療に目を向けさせられる機会を得ることになった。
このような看護医療学部への異動の少し前に、実存療法の永田勝太郎氏、スピリチュアルケアのキッペス神父と出会っていたので、看護医療学部では実存療法とスピリチュアルケアの2つを研究テーマにすることにした。キッペス氏が引率するドイツを中心としてホスピスを見学する約一ヶ月のツアーに三度参加させていただき、スピリチュアルケアに対する考え方の基盤をえた。実存療法(ロゴセラピー)は「夜と霧」の著作で有名なV・フランクルが創設した療法であり、生きる意味や生きがいの喪失に対して行われる。わが国では永田勝太郎氏が研究会を主宰されており、わたくしも会の理事の1人としてメンバーにいれてもらった。
宗際活動との関わり
現在の世界的な戦争の多くにおいて宗教がその一因となっているが、一方で宗教は本来平和や平安を目指す活動団体でもある。大本は出口王仁三郎の「万教同根」の教えの下に、大正時代から諸宗教との協力・提携を続け、宗教間対話を積極的にすすめてきた歴史をもつ。世界平和のために宗教間協力が求められる中、様々な活動に参加してきた。1975年に世界連邦平和促進宗教者大会(亀岡)、1981年世界宗教者倫理会議、1986年にはイタリア・アッシジにおいて世界平和祈願の集い、1987年の比叡山宗教サミットなど、宗教間の対話・宗際活動が行われてきた。
わが国の国内における宗教間対話の促進をめざして教団付置研究所懇話会が設置され、2005年4月には増上寺にて第1回生命倫理部会が「脳死」をテーマに開催された。大本は幹事を努めていたこともあり、その会で私は「脳死について」を講演させていただく機会をえた。そして、その後も、この部会を通して、わたしは多くの宗教者とつながりを持つことができた。
ただし、この懇話会はそれぞれの参加者が教団をせおって発言しなくてはならないために、自由闊達な対話にはならないことを感じていた。教団という組織の一員としての立場からの発言であるためではないだろうか。
霊性研究-フォーラムへの参加
教団付置研究所懇話会生命倫理部会で知り合った本山一博氏(玉光神社権宮司)から2012年「霊性研究フォーラム」へ参加しないかとのお誘いをうけた。このフォーラムは、樫尾直樹氏(慶應大学・宗教学)、本山一博氏、小林正弥氏(千葉大学・政治学/公共哲学)、中川吉晴(同志社大学・教育学)、林貴啓(立命館大学・哲学)など主に人文科学系の学者が意見を交換する場として起ち上げられ、医学の分野からとしてわたしもその一因として起ち上げに参加してきた。
フォーラムの設立趣意書には、以下のような目標が記載されている。
「魂(スピリット)の実在性を仮説的に前提とした新しい科学/学問(=智)と生き方を確立する」
今までの学問は魂やスピリットがないことを前提に創りあげられ、そして、ある一定の成果を出してきた。一方で、魂やスピリットがないとしたことによって生じた弊害も少なくない。そこで、魂やスピリットの実在性を証明しようとするのではなく、実在性を仮説的に前提として新しい学問を創り出そうという大胆な試みであった。色々な分野の学者が様々な角度から霊性について対話をするという面白い会であった。
この会に参加している間に、魂の実在性を仮説的前提とした医療者の集まりをもちたいと考えるに至った。
他宗教の信仰をもつ医療者との出会い
普段、医療者は同僚と会っていても宗教について話す機会はほとんどない。特に、医療について話す時に、宗教が話題に出てくることはまずない。霊魂の存在は、医療者の世界ではむしろ話題にすべきではないタブーでもあった。医学は、科学的に実証されたものの上に構築され、実証されたものを基盤に行うべきであるという前提があるからだ。
しかし、現実の医療の場では、霊魂の存在を前提としなければ説明ができないような事例に遭遇することも少なくない。亡くなった人に出会うなどのお迎え現象や知人が亡くなった時刻に不思議な事象がおきたなどのお知らせもその例の一つである。もっとも、これらの事象も無神論者にとっては、幻想であるとか偶然の一致であるとして片付けてしまうことになるのだ。
MOAとの出会い
2011年のある日、信濃町にある大学の研究室にキッペス神父が訪れ、これからある診療所に招かれスピリチュアルケアについて講演するので一緒に行きませんかと誘われた。キッペス神父に同伴したのは品川にあるMOA(世界救世教の1団体)の診療所であり、わたしにも講演をする時間が与えられた。MOAの教祖である岡田茂吉は大本の出口王仁三郎の下にいた時期もある。普通、分派した宗教団体は仲が悪いものだが、世界救世教と大本は良好な関係にあった。わたしが大本の信者であることを打ち明けると、診療所の役員と話が弾み品川の診療所で月に2回診療のお手伝いすることになった。
診察日に診療所の鈴木清志所長と昼食時によもやま話をする時間をもつことが楽しみとなった。当然のこととして、医療と信仰についても話題となった。MOA診療所の医療者は、岡田茂吉氏が指導された手かざし療法を科学的にその効果を証明しようと研究活動を続け、欧米の英文の学会誌にいくつも投稿もしていた。また、品川の東京療院では食事療法やヨガや太極拳などの運動療法、生け花やお茶などの芸術療法、コミュニティーづくりに取り組んでいた。統合医療の推進のために積極的に政治家や官僚とも接触している。MOA会員である医療者が集う研究会を毎年もち、研究成果を活発に議論していた。医療の中で霊的現象を科学的方法で証明しようとする姿にわたしは心を動かされたし、このような医療者の集いをもっていることをうらやましいと感じた。
GLAとの出会い
2015年11月、慶應大学名誉教授の岡部光明氏に誘われて、GLA(教主;高橋桂子氏)という宗教教団の講演会に参加する機会をもった。高橋桂子氏の講演は、映像と音楽を駆使した、講話と会員の実践報告に驚かされた。40年以上GLAの教主である高橋氏は多くの会員の生きてきた歴史を書面と映像に記録し、1人1人の人生の歩みを解説するのだ。会場の会員の多くの方がその講演で感動をしていた。わたしは大本の信者であることを打ち明けた上でその研究会などにも参加させてもらうことになった。
GLAには多くの医療者が会員となっており、医療者の部会ももって活発に活動していた。年に一度の医療者の集う研究会をもち、人間を魂の存在としてとらえて行う医療について発表し活発に議論していた。MOAは組織内の診療所での医療が多いのに対して、GLAでは公的な病院も含めて組織外で働く医療者の報告があることも新鮮であった。
「信仰をもつ医療者の連帯のための会」の起ち上げ
わたしは、MOAとGLAの二つの教団で、医療者が自分のもつ信仰をベースに医療に向き合い真剣に取り組んでいる姿に未来の医療への可能性を感じた。そして、それを一つの教団にとどまるのではなく、宗派をこえて医療者が集まれば、新たな素晴らしい活動につながるのではないかと考えた。そのことをMOAの鈴木清志医師とGLAの馬渕茂樹医師に相談したところ、両者からも快い返事がえられたので「信仰をもつ医療者の連帯のための会」を起ち上げることなった。その趣意書を書き上げたのは2016年2月3日であった。
信仰をもつ医療者という表現は、一定の宗教に属していなくても神仏や霊魂の存在を肯定的にとらえているという意味で使った。また、信仰をもつ医療者の連帯に関心があるのであれば、医療者に限定するのではないこととした。
この名称にしたもう一つ重要な点は、本会が宗教宗派を代表して参加する会ではなく、信仰をもつ一個人として参加し発言することを前提とすることにより、自由闊達な対話が可能になると考えたからである。それぞれの個人は自分の宗教が一番よいと思っているかも知れないが、それを競い合ってもしようがない。自分の宗教を自慢するのではなく、その宗教をベースにどのように生きてきたが、活動してきたかが問われているのだ。その意味で、自分のもつ宗教ではなく、信仰の上に対話をする場を目指したのである。
精神科医師で林香寺住職の川野泰周医師、シュタイナーのアンソロポゾフィー医学の堀雅明医師、精神科医でその後出家し要唱寺住職となった斉藤大法医師など、多彩な顔ぶれで世話会を構成でき、約二年の準備期間にどのような会にするかについて議論をしてきた。そして、死生学の分野で多くの学者を育ててこられた上智大学グリーフケア研究所所長の島薗進教授にも顧問として参加していただくことになった。
世話人会では、お互いの宗教を理解するためには議論することから始めるのではなく、まずそれぞれの聖地の霊気に触れることも大切ではないかと、各世話人の聖地を訪問する企画もった。2017年春には箱根と熱海(MOA)に、2017年秋には亀岡と綾部(大本)に、2018年秋には建長寺と円覚寺(臨済宗)に研修旅行をした。2019年にはGLAの八ヶ岳いのちの里に訪れ、子供の研修会を見学させていただいた。
「信仰をもつ医療者の連帯のための会(信仰医連)」第1回大会について
2年半の準備の後、2018年10月28日に慶應大学信濃町キャンパスで第1回の信仰医連の大会を開催した。58名が集い、午前の部では、わたしがこの会の開催に至った経緯を説明し、次に、島薗進教授による「医療と宗教の複合領域の展開;1970年代から2010年代へ」の基調講演、鈴木清志医師の「個人的な趣味で行っている「宗教と医療」の研究 第1報」へと続いた。 昼食時には、ランチオン形式とし、仏教の斉藤大法医師、キリスト教の酒谷薫医師に、話題提供をしていただいた。
午後は、わたしが主宰している公開講座「患者学」でも使っているワールド・カフェ・スタイルでグループ対話を行った。約7名の7グループで「宗教と医療」、「信仰と医療」についてなどを話し合いました。グループ対話により、それぞれの参加者は自分の意見を話すこと、周りの人の話を直に聴くことができたため、理解と親睦を深めることになった。懇親会は、立食形式で自由にグループをつくりながら話し合うことができた。
後日に行われた世話人会では、全体として参加者の満足度が高く成功したのではないかとの意見であった。参加者からの言葉として、初めて他宗教の医療者と話し合うということで、最初は緊張していたがお互いを知り合うことで外の世界にも仲間がいることを実感したという感想が聞かれた。外の世界に自分と同じような考えをもつ医療者の存在を知ることができてうれしかったというだけではなく、他の信仰をもつ人と話すことができ、自分の信仰と医療の関係について振り返る機会になり、自分の信仰を相対化することに役だったなどの意見もあった。ワールド・カフェスタイルは連帯を高めるためにはよい形式であったが、発言を独占する人がいて対話が上手く進まなかったグループもあったとの報告もあり、今後の運営の改善などについて話し合った。また、仏教やキリスト教などの伝統宗教の医療者の参加者を増やしていきたいということが、今後の課題となった。
本会の展望について
本会の目標は、信仰心を持つ医療者だからこそできる真の人間に対する医療を実現し、それを社会に普及させることにある。真の医療には慈悲心が不可欠であり、それは信仰をもってこそ可能となるのではないだろうか。もちろん、信仰をもつ医療者が慈悲心を持てているのかと疑問を呈する人がいるかもしれないが、少なくとも、それぞれの宗教の教祖は慈悲心を体現した人であっただろうし、宗教では慈悲心をどのように獲得するかが教えられており、信仰者は慈悲心をもつことを目標に活動してきたとは言えるだろう。
本会の至近の目標は、信仰心を持つ医療者の連帯を促すことにあり、次に、信仰心を持つ医療者ができる医療を自分の周りに実現し、実現した医療を情報交換し、それを拡げることにあると考えている。将来的には、信仰心を持つ医療者からのメッセージを他の医療者にも届けることが可能だろう。
また、新しい宗際活動の一つのモデルとして社会に発信することができるだろうと考えている。医療という共通の分野で活動する医療者は、同じような現場をもち、そこでえられた経験を基に実践例を披露しあい対話をすることができる。宗教間協力(宗際活動)を実らせるために向いている職種ではないかと考えている。スピリチュアル・ケアの本質は、宗教や宗派を超えるというところにあるのではないだろうか。
“interfaith”あるいは「超宗教」について 鎌田 東二
緊急事態宣言下の東京オリンピック開催中の本年8月5日、ニューヨークに住む友人の龍村和子さんから「Hiroshima & Nagasaki Interfaith Peace Gathering」と題する案内状が届いた。この「Interfaith」を何と訳すかから始まって、「超宗教」や「宗教間理解・対話・協力」や「臨床宗教師」のありようについて考え、先行実践事例として、奥吉野の天河大辨財天社と柿坂神酒之佑宮司さんのことを思い浮かべたのである。
緊急事態宣言下の東京オリンピック開催中の本年8月5日、ニューヨークに住む友人の龍村和子さんから「Hiroshima & Nagasaki Interfaith Peace Gathering」と題する案内状が届いた。そこでわたしは、龍村さんにすぐに「Interfaith」は日本語にどう訳すのか、と訊いてみた。
その答えは、「Interfaithは、超宗教とかどんな種の宗教も入って、とかです。」というものだった。そこでわたしは、さらに次のように返信した。「ご教示、ありがとうございます。『超宗教』! 1994年に、春秋社から『天河曼陀羅――超宗教への水路』と題する本を出したことがありますが、これも“interfaith”でしたね、確かに。/ところで、わたしは、2016年2月に設立された「一般社団法人日本臨床宗教師会」の二代目会長を務めていますが、その「臨床宗教師」を Interfaith Chaplaincyと英語に訳しています。」と書き送り、「日本臨床宗教師会」のURL:http://sicj.or.jp/と、その二代目就任挨拶で次のように書いていると会長挨拶のURL:http://sicj.or.jp/greeting/を知らせた(ちなみに、当会は2016年2月に設立され、初代会長は本会議理事の島薗進氏である)。
龍村和子さんは、ニューヨークでヨーガの先生を長いことしているが、『地球交響曲(ガイア・シンフォニー)』などで知られている映画監督の龍村仁さんの実姉であり、実家は京都西陣の龍村織である。わたしはたしか天河大辨財天社で龍村和子さんに初めて会ったと記憶する。そしてその天河大辨財天社のことを「超宗教」の現代的拠点であり世界モデルであると思っていたので、なるほど”interfaith”をそのように訳すことができるのかと膝を打った次第である。
ちなみに、”interfaith”を辞書で引いてみると、「異教徒間の」とか「異宗教間の」ととかの訳語が出てくる。また宗教が異なる者同士のカップルや結婚を“interfaith couple”“interfaith marriage”、また宗教間対話を“interfaith dialog(dialogue)、宗教間理解を”interfaith understanding“、さらには共通の原理や理念に基づいて宗教間協力をすることを”cooperate on an interfaith basis on common principles”と言うとある。
1984年4月4日に初めて天河大辨財天社を訪れて以来まもなく40年になるが、わたしは天河大辨財天社で、「超宗教」と「宗教間対話・宗教間協力・宗教間理解」の実になまなましくもやわらかな現場を垣間見てきた。柿坂神酒之佑宮司さんはその超宗教的対話や協力や理解し合いの最前線にして最深部にいたと思う。
それはなにゆえに可能となったのか? それは、天河大辨財天社が中世から「吉野熊野中宮」とも「男女冥会」とか「金胎両部」の霊地とかと呼ばれてきた伝統に育まれ、古来、水の女神を祀るその心があらゆるものに浸透し、吸いつき、出逢うものによって変幻自在に形を変えてゆく融通無碍の霊性を本性としてきたであろう。柿坂神酒之佑宮司さんはまさにそのような水の神弁才天の化身であり、エージェントであった。
その柿坂神酒之佑宮司さんとは『天河大辨財天社の宇宙――神道の未来へ』(春秋社、2018年)という共著も出したが、その共著の最後の方で、わたしは次のように述べた。――全国に約8万社ある神社と約7万近くある寺院が日本の地域共同体の自然・文化・社会的な安全安心の拠り所となることができれば日本社会の安定に寄与することははかりしてないだろう。藤田一照さんと山下良道さんは『アップデートする仏教』(幻冬舎新書、2013年)や『<仏教3・0>を哲学する』(春秋社、2016年)で、①仏教1.0(檀家制度に支えられた葬式仏教・コミュニティ仏教として形骸化していった日本の大乗仏教)、②仏教2.0(瞑想修行の実践的プログラムと実修を具体的に提示したテーラワーダ仏教)、③仏教3.0(テーラワーダ仏教による批判的吟味を踏まえて仏教本来の瞑想修行を取り戻した大乗仏教)と主張したが、その論法で神道の過去現在未来と可能性を見通すならば、①神道1.0(天皇制を頂点とした律令体制以降の神社神道や近代のいわゆる国家神道)、②神道2.0(天皇制以前から存在してきた神祇信仰や自然崇拝を中核とした自然神道や古神道)、③神道3.0(自然神道を核とし国家神道を内在的に批判突破した神神習合や神仏習合や修験道をも内包する生態智神道)と言えると主張した。
天河大辨財天社には、日本列島の多様性に基づく多層的な自然崇拝としての生態智神道があり、その上に、真言密教の即身成仏思想や草木国土悉皆成仏を謳った天台本学思想を内包止揚した惑星神道(地球神道、Planetary Shinto)という「神道4.0」の芽があるとわたしは思っている。そこには、「吉野熊野中宮」という地場を活かした宗教間対話と宗教間相互理解に基づく、新しい時代の「新神仏習合」ないし「新神仏習合諸宗共働」の宗教性が、その地を流れる天の川(下流に流れ落ちて十津川・熊野川となる)のうねりとなって息づき、この惑星の太平洋に流れ込んでいる、と。
その天河大辨財天社を一つの事例として、今後も、「一般社団法人日本宗教信仰復興会議」の「日本宗教信仰復興」のかたちと可能性を考えていきたい。ここ30年ほどの付き合いのある龍村和子さんから、東京オリンピックのさ中に、「Interfaith Peace Gathering」という案内を得て、「Interfaith=超宗教」についてさまざまに考えさせられたのである。
「悲とアニマⅡ――いのちの帰趨」展について 秋丸 知貴
エーリッヒ・ノイマンの『芸術と創造的無意識』を手がかりに「創造的人間」とはどのような存在か。、そしてそこで創造されてくる芸術とはいかなるものか、また創造行為や過程にかかわる男性原理と女性原理とは何かを考えてみる。閉塞し混迷した現代世界において、「内なる男性性」を確立するとともに、虐げられてきた「内なる女性性」(アニマ)を呼び覚まし統合することこそが求められているのではないか? 2015年に北野天満宮で開催された「悲とアニマ――モノ学・感覚価値研究会展」に続き、「悲とアニマⅡ――いのちの帰趨」展は、東日本大震災から10年目の2021年秋に京都の二会場で開催される。第1会場である建仁寺塔頭・両足院では「彼岸」を、第2会場であるThe Terminal KYOTOでは「此岸」を象徴する展示を行う。現代日本美術において、伝統的な日本の自然観や死生観がどのように表象されているかも本展の見所の一つとなる予定である。
ユング派分析心理学の重鎮エーリッヒ・ノイマンは、『芸術と創造的無意識』(1954年)で、社会における芸術家の役割について論じている。
まずノイマンによれば、創造的な人間は、個人的な無意識を超えて、全人類が深奥で共有している集合的無意識に通じている。集合的無意識は、宇宙の創造力の根源であり、「聖なるもの」(R・オットー)の源泉であり、様々な不可視の元型が司る領域である。
創造的人間は、この集合的無意識に沈潜し、元型を触媒として、彼の属する社会の求める「シンボル」(E・カッシーラー)を生み出す。シンボルは、精神的意味内容を感性的形式で表現し、認識と行為を支え、現実への適応を助ける。創造的な人間により可視化され具体化されたシンボルは、その社会に共有され、集合的意識を方向付け、それぞれの個人的意識に影響する。時代が移り変わり、社会の求めるものと既存のシンボルに齟齬が生じると、再び創造的な人間が集合的無意識に沈潜し、改めて元型を触媒としてその社会の求める新しいシンボルを作り出す。
こうした創造的人間は、宗教、思想、政治、経済、科学、技術、芸術等のあらゆる文化領域に存在するが、ある意味で最も重要で基礎的なのは芸術家である。なぜなら、シンボルの創出は、直観が論理に優越し、造形が言語に先行するからである。従って、文化社会はすべからく優れた芸術家を擁している。特に、造形芸術、音楽芸術、身体芸術は、言語芸術よりもより根源的な象徴的有意義性を有している。人類の文化的発達と洞窟壁画の成立が並行しているのは、故無きことではない。
ここで興味深いことは、ノイマンが西洋文明には二度の大きな転換期があると述べている問題である。つまり、中世から近代にかけては女性原理から男性原理への重心移行があり、20世紀以後は男性原理が過剰になり過ぎた揺り戻しとして再び女性原理が蘇りつつあるという。
ノイマンによれば、人類は「太母(グレート・マザー)」元型の強い中世までは無意識的領域にまどろんでいたが、次第に「太父」元型の強い近代に入ると意識を先鋭化し、合理的精神を発達させた。この合理的精神が、個人主義をもたらし、経済的資本主義や政治的民主主義を形成し、科学技術を誕生させた。これらにより、人類は無智蒙昧から解放され、飛躍的に物質的繁栄を謳歌することになった。造形芸術においては、主体的個人による客観的世界の把握を含意する、ルネサンス期における一点透視遠近法の成立がこれを象徴している。
しかし、次第に無意識から切り離された意識は肥大化し、世俗化を推進し、最高価値の喪失としてのニヒリズムを招来し、貧富の差を拡大し、自然環境を破壊し、機械化による人間疎外や破滅的な二度の世界大戦を発生させることになった。
この男性原理の過剰に対する補償として、戦前から戦後にかけて女性原理が再び強まりつつあると、ノイマンは見る。つまり、「太母」元型が再来することにより無意識的領域が活性化し、現世志向の強い近代精神により切り捨てられてきたアニミズム的・汎神論的心性が復興しつつあると説いている。まず、「恐ろしい母」の下で、キュビスムに代表される人体像の解体や、シュルレアリスムに典型的な悪夢的なイメージが台頭する。次に、そうした混沌と暗黒の中で、さらに「聖なる母」が顕現し、マルク・シャガールやヘンリー・ムーアに象徴されるような普遍的な慈悲や友愛の精神が目覚めようとしていると説明している。
ノイマンによれば、集合的無意識に内在する神聖性と向き合いつつ、個人的な意識と無意識を統合していく個性化こそが、今日あらゆる人間の課題である。
もちろん、こうしたノイマンの議論はやや強引なところがあり全てを首肯することはできない。それでもなお、私達が傾聴すべき部分も決して少なくはない。
新型コロナ禍や毎年発生する異常気象が、人新世における人類の自然コントロール願望に淵源を持つことを疑う者は、今や少数派であろう。ノイマンの用語で言えば、それは近代西洋的な男性原理の過剰による意識の肥大化の副作用である。そこでは、東洋、特に日本が古来大切にしてきた、森羅万象には魂(アニマ)が宿り、人間は大自然の一部に過ぎないという謙虚な自然観は見失われている。また、魂は此岸だけで消滅するのではなく彼岸との間で循環するのだから、この現世で傍若無人に振る舞うべきではないという深遠な死生観も忘却されている。いのちの帰趨は、母なる大地、母なる大自然、母なる大宇宙である。人間の力ではどうにもならない不幸な現実に強烈な悲哀を感じるとき、物質主義的価値観に目が曇る近代人にもそのことが思い出されるのかもしれない。
「内なる男性性」を確立すると共に、虐げられてきた「内なる女性性」(アニマ)を呼び覚まし統合することこそが、今求められているのではないだろうか?
2015年に北野天満宮で開催された「悲とアニマ――モノ学・感覚価値研究会展」に続き、「悲とアニマⅡ――いのちの帰趨」展は、東日本大震災から10年目の2021年秋に京都の二会場で開催される。第1会場である建仁寺塔頭・両足院では「彼岸」を、第2会場であるThe Terminal KYOTOでは「此岸」を象徴する展示を行う。
現代日本美術において、伝統的な日本の自然観や死生観がどのように表象されているかも本展の見所の一つとなる予定である。
「祈りのこけし」物語 水谷 周
「祈りのこけし」の由来と、本法人との連携の事始め。人を赦し、命を最重視し、正直に生きるという3点では、完全に両者の思いは一致している。このようなこころの輪の広がりは、他でもない信仰復興にも直結するものがある。
「祈りのこけし」には、目も口も鼻もありません。それは白木のこけしです。由来としては、水俣病の被害に遭い苦しみながら失われた人間、魚、鳥その他のすべての思いが宿っていると思われる水俣湾埋め立て地にある、実生(みしょう)の森の木の枝で彫られたものです。失われた全ての生命に祈りを捧げながら、「命の大切さ」に思いをいたし、二度と水俣病のような悲劇が繰り返されないよう願いを込めて彫り続 けられています。白木のままというのは、未完成の意味です。それは見る人のこころで完成させてほしいという製作者の気持ちからです。
その製作者とは、熊本の水俣市在住の緒方正実(おがたまさみ)さんです。彼は水俣病と認定されなかったので、10年余りの「孤闘」を経て、それを実現された方です。自然発生的に「いのりのこけし」は創作し始められて、この10数年の間に天皇皇后両陛下や国連議長、そして歴代の日本の環境大臣などに、約4000体が寄贈されてきました。
筆者はそのような活動を、NHKテレビの「こころの時間」を通して知りました。再放送も含めて、2回も見る機会を得ました。そしてその由来と簡素で淡泊な形象に、これこそ祈りを象徴し、祈りの力を引き出してくれるものだと深く感銘を受けたのでした。本年6月のことでしたが、その当時は拙著『祈りは人の半分』という著作の執筆も終わり、本の装丁に思いを馳せていたという偶然の一致がありました。すぐにこの「祈りのこけし」を同書のカバーに取り入れたいという想いに取りつかれたのでした。
そこでその想いを水俣の関係者とその知人である当法人の鎌田東二理事から、ご本人に伝えていただくこととなったのでした。そしてそれに対しては、緒方さん自身からすぐに承諾の回答を得ることができました。さらには、そういうことであれば、「一般社団法人日本宗教信仰復興会議」のために一体を新しく製作しましょうというお話まで頂戴することとなったのです。そしてそれは7月末には完成して、カバー写真として小著を飾ることができました。また今後もその「祈りのこけし」は当法人のシンボルのようにして、各種会合などでも壇上に登場して活躍するものと期待されます。
緒方さんは水俣病の直接の加害者である企業を責めるだけではなく、その後その事実を歪めて認めず、適時適切な施策も取らなかった国と地方行政の、虚偽、誤魔化し、隠ぺい、無責任な姿勢も同時に大いに糾弾されたのは、あまりに当然でした。しかしそれも、やがて各方面に「祈りのこけし」を配られて、称賛と支援の声が広まる中、考えは変化し始めました。行政も過ちを認め是正に努めることについては、赦す気持ちが高まり、また同時に命の重要性について改めて認識を深め、正直に生きることの大切さを確認されたのです。
人の過ちを赦し、生きるものの命を最大尊重し、正直に生きるということは、他ならぬ宗教心の核心でもあります。こうしていくつかの偶然も重なったのですが、結果としてはこけしの製作地である水俣と筆者が在住する横浜とが、思考と感覚の深いところで一本につながることとなったのでした。このような偶然は、本当は偶然ではなく、離れてはいてもいずれ繋がる宿命であったという気もします。
それはいわば、こころの輪が広がったといった感覚です。同胞を得た感覚とも言えます。こころの輪が広がることは、当法人の一番の眼目であるので、昨年夏の設立以来、最良の果実を得ることができたと言えそうです。今後ともこういったことを大切に育んで行きたいと願っているところです。
おわり
<いのち>とミュージック・サナトロジー 里村生英
2017年に京都大学大学院教育学研究科に提出した学位請求論文をこのほど春秋社から、『ミュージック・サナトロジー やわらかなスピリチュアルケア』と題して出版した。11世紀フランスのクリュニー修道院の看取りの慣わしと文化を淵源として持つ「ミュージック・サナトロジー」は、ベッドサイドでハープと歌声を使い、末期患者とその家族の、身体的・感情的・スピリチュアルなニーズに対し、「プリスクリプティヴ・ミュージック」で応じる実践運動としてシュローダー・シーカーが1990年代に提唱した。
私事で恐縮ですが、日本宗教信仰復興会議から出版助成をいただいて、この5月に『ミュージック・サナトロジー やわらかなスピリチュアルケア』(春秋社)を出版させていただきました。
死に逝く人のケアはどうあるべきか。シュローダー=シーカーが提唱した「ミュージック・サナトロジー(Music-thanatology)*」に着目して、死に逝く人と共にある「音楽経験を通したスピリチュアルケア」のありようを総合的に考察した研究書です。2017年に京都大学に提出した博士論文が元になっており、エンドオブライフケアとしての歴史的・今日的意味を探究しました。
(*「ミュージック・サナトロジー」とは、ベッドサイドでハープと歌声を使い、末期患者とその家族の、身体的・感情的・スピリチュアルなニーズに対し、いわゆる「プリスクリプティヴ・ミュージック」で応じる実践運動、及びそのやり方です。)
この原稿を書いているのは2021年8月第1週。新型コロナウィルス感染症対策の自粛的生活も2年目に入り、ここ連日は、感染急拡大と医療システムの限界・崩壊懸念が報道されています。誰もがどこか頭の隅で、「もしかしたら感染して亡くなるかもしれない」と思ったり、死を身近に感じたりしているのではないでしょうか。
しかしその一方、生活様式の様々な変化への対応・工夫が余儀なくされるなか、これまで当たり前にしてきたこと・なんでもなかったことが“炙り出されて”きているようにも思われます。それは、人間存在の根本、すなわち、<いのち>の(「愛おしさ・輝き・働き・尊厳・つながり」といった)類のことです。生物学的な、いつかは終わる命を、より強く意識したり経験するがゆえに、この世の命を<超えるいのち>を(誰かに教えられたり、強制されたりしたわけでもないのに)、“希求し”、“信じよう”としている。そういった人間本来の姿が、著作やメディア・SNS等で、以前より多く散見されるような気がします。
自著PartⅠではミュージック・サナトロジーの臨床実践を見ましたが、日本での応用実践・ハープ訪問において、患者と家族そして医療スタッフが経験していることは、まさしくこの<いのち>の顕現でした。彼らはそれを(生き生きと、堰を切ったように)「語り」、その存在を“確認”したことを伝えてくれました。それは例えば次のような表現です。
・「第三の眼がびんびんする感じです。」(逝去5か月前、40代女性)
・「元気が出た(意欲・希望が湧いてきた)。」(逝去14日前、20代男性)
・「魂に触れた感じだったのではないでしょうか。あんなに輝くあの子を見たのは久しぶりです。」(家族:末期患者の母親)
・「ええ、わかっとります、母は天国へ行くと思います。」(家族:危篤患者のご子息)
・「(患者さんが)静かに聴くかなと思っていたのが、すごく感じ始めているというのが分かってそれに驚きました。ハープの音は何か患者さんの中を満たすものだったのだろうと思います。」(照会看護師:がん専門看護師)
同じくここで取り扱った米国での実践報告においても、医療スタッフが(インタビューに際し)「神聖なスペース」などを用い、ミュージック・サナトロジーの場の<いのち>の働きについて言及していました。例えば次のようなものです。
・(ミュージック・サナトロジーは)神聖な空間を創り出します。そこに居る人は誰でもここが安全だと感じ、何か神聖なもの、寛ぎ、静けさを経験しています。(それは)非常に安全で私たちを護ってくれるものなのかなと思います。(ソーシャル・ワーカー)
・私は個人的には(医学的介入面よりも)、スピリチュアルな要素(美、希望)に印象づけられています。音楽は必ずしもすべてが前頭葉に入っていくわけではありません。音楽の要素が加わるということは、非常に希望に満ちた要素がそこにあるということだと思います。(医師)
・(患者さんに反応がない、聴くのが困難であるから、といって周りの人がミュージック・サナトロジーを断るとき、)それは何か日常の次元とは異なる、より深い次元に開かれていくことの可能性を逃すことになります。ミュージック・サナトロジーの根本意図は、表面的な音楽的関わりではありません。(ここで本当に起こること、)それは恩寵、神秘です。(チャプレン)
翻ってPartⅡでは、響き・音楽が死生(命といのちの両方)と関わるあり方のルーツが11世紀クリュニー修道院の看取りの慣わし・儀式の中にあることを突き止め、念入りに歴史的視点を検討し、ケアの本来性とスピリチュアリティのありようを浮き彫りにしていきました。そうして、クリュニー修道院で試みられたケアの精神は、現代のミュージック・サナトロジーへの架け橋として、こう整理されました。
①人間を身体と魂から成る統合的存在と捉える。②「死に逝く」から距離を置くのではなく、これを人生の重要な一部分として捉え、死に逝くその「ひと」、そして死に逝くに伴う「痛み」と「共にある」。③傍に「居る」という存在の仕方を鍛錬し、ケアのやり方とする。④死に逝く人と全人格的に関わり、また超越的存在とのつながりをとりなすために、“つなぐもの”として、ひびき・音楽を応答的に用いる。⑤「死をどう捉え、受け止めていくか」についての信念・信条は「死は終わりではなくはじまりである、永遠のいのちの世界に入ることである」。(160-166頁)
以上の五点が現代の私たちに示唆するのは、まさしく「肉体と魂の二重のケア」が死に逝く人へのケアには必須であること、そして、死を新たないのちの局面への転換点として捉えることにあるように思われます。
特に、いのちが宿るからだに、解剖学・生理学上の肉体とそこには見ることのできない魂を“見て”、さらに新たないのち(永遠のいのち)に入ることを“信じる”、その態度は“圧倒的”です。
クリュニーの死に対する態度は、ケアの本来の姿、すなわち当時彼らが懸命に取り組んでいた、内面的にも世界全体的にも「人間の調和状態」を目指すことへの立ち返りにほかありません。
このことは、PartⅢにおいて吟味したシュローダー=シーカーの創意にも覗われました。彼女はクリュニーの看取りを礎にして、「観想的修練(contemplative praxis)」を、現代の死に逝く人と共にあるケア者の第一要件としています。死に逝くという状況や死に逝く人と内面のレベルで“つながり”、そして心からその場に“居る”ためです。そのために、「習慣的に無自覚のまま身につけてしまった考え方やあり方を剝ぎ取っていく」訓練(「メタノイア修練」)を再構築し、それを「ファイン・チューニング」として表しました。
彼女によれば、無自覚にパターン化された自分のあり方(being)や考え方(thinking)に気づかされるようになると、心の奥(ハートと魂)の静かさと純粋さの場所を発見し、それを覆ってきたベールや仮面が剥がれ落ち、さらには何か強くて静かなものが芯の部分から放出され、その人全体を統合するといった工程で変容が進んでいきます。心の働きと存在の仕方の分断を、ハートと魂のエネルギーによって統合する、そういった意味での全体的調和へのプロセスを歩むことがメタノイア修練なのです。
そして、ここに音楽経験を通したスピリチュアルケア(いのちへのかかわり方)のありようが見えてきます。その詳細は自著に譲るとして、最後にシュローダー=シーカーの言葉を援用して終わりたいと思います。
「メタノイア修練としてのファイン・チューニングは、内面へと向かう静けさ、竪琴の伴奏で歌うときの静穏・静けさに心を合わせることです。それは深く聴き入り、この瞬間に求められていることを聞き、そして、自由に、喜んで与えることを可能にします。」
ケア・かかわりとは本来このようなものであり、このようなありようが“永遠のいのちの交わりにいる”と表現され得るのかもしれません。
こころの拠り所としての釣石神社(宮城県石巻市北上町) 須田郡司
東日本大震災が起こったその時、私はつくばの国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)の地質情報総合センターへ打ち合わせのため電車で移動中でした。その時の報道映像を見ていて、私は質としての命ではなくどこか量としてモノ扱いされている印象を強く持ちました。震災1ヶ月後ほどして、鎌田東二さんから連絡があり、一緒に東北被災地を訪ね、宮城県石巻市北上町の釣石神社に向かいました。そこで・・・
2011年3月11日14時46分,、東日本大震災が発生しました。
その日、私はつくばの国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)の地質情報総合センターへ打ち合わせのため電車で移動中でした。北千住駅からつくばエクスプレスに乗り換え10分も走ると突然、高架上に電車は緊急停車しました。電車は揺れに揺れ、周囲の電線も激しく揺れていました。大きな地震が来たことをすぐにわかりました。しばらくすると東北、関東に巨大地震が発生したと社内アナウンスで知ったのです。車内は比較的空いてましたが、立っているいる数人いました。結局、2時間ほど車内に閉じ込められ、電車を降りて線路沿いに最寄りの駅まで歩くことになったのです。100人近い人が、車掌の指示のもと三郷中央駅に着いたのは震災から3時間近く経っていました。それから満員バスを乗り継ぎながら、当時住んでいた市川市の自宅に帰ったのが深夜でした。妻は帰宅困難で当時働いていた職場に泊まり、翌朝帰宅しました。
震災の翌朝、透き通るような青い空でした。昨日の地震が嘘のように、穏やかな日差しが降り注いでいました。
震災当時、私は千葉県市川市にある7階建てのマンションの6階に住んでいました。震災から数日、余震が来るたびに生きた心地がしない状況で過ごしていました。インターネットでNHKのテレビ放送が見れるようになり、繰り返し流れる津波映像を見る度、どこか非現実的な世界を見ているようでした。映像の中であきらかに、多くの命が失われていたのです。くり返される映像では、質としての命ではなくどこか量としてモノ扱いされている印象を強く持ちました。何よりも東京電力福島原子力発電所が津波の被害で電源が喪失しメルトダウン、水素爆発が起こったのです。目に見えない放射能汚染により、命が失われようとしていました。ある意味、この世の終局を思わせるような出来事が迫っていました。
そんな中、ネット情報で宮城県の釣石神社の記事を見たのです。釣石神社は、日本石巡礼(2006年)の旅の途中に訪ねていました。宮城県石巻市北上町十三浜菖蒲田にある釣石神社は、大きな巨石を御神体としている神社で北上川の河口近くにありました。津波が来た時、何人かの人は釣石神社がある小山の階段を駆け上って命拾いしたということをネットの記事は伝えていました。
震災から1ヶ月ほど経った頃、宗教学者の鎌田東二さんから震災後の被災地の状況を見るため車で一緒に行かないかとのお誘いを受け、5月初旬、仙台で合流することにしました。仙台では、陶芸家の近藤高弘さんと奥様と合流し、東北大学の宗教民俗学者の鈴木岩弓さんを中心とし「心の相談室設立について」の記者会見が宮城県庁で行われ拝聴しました。その後、近藤さんの陶芸仲間の方から車をお借りし、鎌田さんと共に東北被災地巡りの旅が始まりました。我々は、できるだけ海岸線を走り、寝袋で車中泊をしつつ現地を見ながら北上することにしました。石巻市内の被害は、かなり深刻な状況でした。私は、ネット情報から釣石神社へどうしても行きたいと願い、鎌田さんと共に釣石神社へ向かったのです。しかし、その近くに行っても釣石神社を見つけることができませんでした。それもそのはず、周囲の地形は津波ですっかり変わっていたのです。巨石の前の社務所はもとより、周囲の民家がまったく見当たリません。釣石の前は、大きな水たまりとなっていました。2006年当時、釣石神社社務所の周囲は数十軒もの家が立ち並んでいました。10数メートル級の巨大津波は、社務所はおろか、数十件の家々全てを流し尽くしていたのです。
「釣石」由来の巨石を左側に174段の階段を昇ると、北上川河口から朝日差す釣石神社の社殿があり、大正3年に新築の奥ノ院にはご祭神の「天児屋根命」が鎮座されています。由緒書によれば、当追波地区は元来「舘ヶ崎」と称されていたそうです。その奥地の国有林鷹ノ巣山のうち産土沢と称する山上に祀られていたが、里人の便宜よく北上川沿いへの移動により、元和4年(1618年)現在地に遷宮したといいいます。明治初期、崖の中腹から突き出た周囲14メートルもの巨石があったことから、「釣山」から現在の「釣石」へ改められたそうです。舘ヶ崎は北上川門口のため、伊達藩領地の重要な要塞として伊達藩主が当地方を度々巡視されたようで、当地巡視の際に社側の丘に登って四方を眺望し、波の追い来たりを御覧になられて、次の一句を詠んだといいます。
「舘崎に 登りて見れば 朝日差し 綾に寄せ来る 追ひ波の浜」
昭和53年(1978年)宮城県沖地震にも耐えたことから「落ちそうで落ちない受験の神」として人気が上がり、更に平成23年(2011年)東日本大震災にも耐えたことから増々人気が上がり、全国から合格祈願者のお参りが続いているといいます。
震災から2年目、釣石神社を訪れた際、偶然、岸浪均宮司さんとお目にかかることができました。
宮司さんは、震災当時、石巻市北上町役場の職員をされていました。震災の日は、幼児を引率して命を守ることに懸命に仕事をされていたといいます。その後、東北被災地追跡調査の訪問の際は、何度も宮司さんから震災後の経過などのお話を聞かせていただいています。
今では、釣石神社の拝殿ができ、地元の人たちにとっての拠り所的な存在になっています。釣石神社は、ある意味、3.11東日本大震災の復興のシンボルとも言える神社です。これからも、東北の人たちの心の拠り所としての役割を担い続けてもらいたいと願っています。
巨石ハンター・写真家 須田郡司
思えば遠くまでやって来た 遠藤邦夫
生涯を振り返っての、信仰への道のりを語る。「『自分の意思の行方』が問われているのだと思います。・・・「鎌田さん(当法人理事)と良い縁があってよかったね。そう力こぶをいれて考えなくても、出会うべくして出会い、なるべくしてなったんだよ」と妻に言われた筆者遠藤邦夫の一文。
私が好きな中島みゆきの「命の別名」の歌詞の一節に、「・・・ 何かの足しにもなれずに生きていく 何にもなれず消えていく ・・・ 石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ 僕と生きてくれ ・・・」と、神ながらの道をさらりと歌っています。そんな歌に自分を重ね合わせている私に、妻は「高倉健や中島みゆきのようなかっこいい生き方をしてください」と、私を誰と思っているのか分かりませんが、そんなとんでもないことを口にします。
私は水俣病センター相思社の機関誌担当だった頃、1994年の秋だったと思うのですが、原稿を依頼するために大宮市櫛引町の鎌田さんの家を訪ねました。この町名、さすが神道学者が住んでいる町名にふさわしいなどと、どうでも良いことを思いながら行きました。その時のことで覚えているのは二つ。一つは、とても高価な牛肉を焼いていただいたことです。もう一つは、水俣病被害者の緒方正人さんが被害者団体を一人離脱し、本人曰く「狂った」ことです。テレビを庭に放り出し、車をわざと岩山にぶつけ、延々ともがき苦しんだ話をしました。鎌田さんは「その人は精神病だ。自分も同じ経験がある」、ある絵の下で2週間眠らずいたことがあると言われました。機関誌「ごんずい」25号に「場所の力、場所の霊 der heilige Punkt」を書いていただきました。
原稿依頼の前には、鎌田さんの本を何冊か読んでいました。宗教学者の鎌田さんの本を読むようになったのは、自分自身が不安に囚われていたからです。1989年にはベルリン壁が取り払われ、その後自称社会主主義国家のソ連・東欧圏は崩壊していきました。天安門では民主化を求める学生たちを、共産党政権が虐殺しました。ただこの時に、私は学生たちの民主化要求がよく理解できておらず、中国政府にも学生にも批判的だったような気がします。学生運動以来、自分を支えてきたマルクス・レーニン主義が、ソ連や中国の資本主義化で投げ捨てられていきました。まあソ連や中国の社会主義なんて、もともとインチキだったと言っても事態は何も変わりませんでした。 自分が関わっている水俣病事件でも、そうした思想が次の世界を導く理論とは思えなくなっていました。率直に言えば拠って立つものがなくなって、とても覚束ない気持ちになっていたのです。鎌田さんのどの本を読んだのかはっきり覚えていないのですが、人と自然と神の関係をこのように考えていいのか? まるで唯物論的思考じゃないかと思いました。ひょっとしたらこの人は、私の求めているものを持っているのではないかと思って連絡したのです。頂いた原稿「場所の力、場所の霊 der heilige Punkt」は、すとんと腑に落ちました。その後生まれた娘に、宮沢賢治の『狼森と笊森、盗森』は幾度となく読み聞かせました。
その次にお会いしたのは、鎌田さんに誘われた2018年の石牟礼道子追悼「死者と魂」のシンポジウムでした。四半世紀たっても覚えていただいていたことに驚きと感謝でしたが、とても刺激的なシンポジウムでした。私はそこで水俣病事件を歩む三つの道として、緒方正人の魂の道、あくまでチッソや政府の責任を問うファンダメンタルな道、水俣病被害者の利益を優先する俗世の道を初めて人に話しました。休憩時間に司会をされていた島薗進さんに、「若松英輔さんのハードな言葉を、これからどうされるのですか?」と聞いたのです。島薗さんは「まあ、あれは、若松さんのご意見ですから」と軽くいなされたことに改めて驚きました。
1987年に水俣にくるまでは、私はバリバリのマルクス・レーニン主義者で、宗教は粉砕対象でしかありえませんでした。今思うと恥ずかしくなるのですが、その頃は本気で考えていました。しかし水俣で神様を大事する人々にふれあう中で、また自分の内にある「神」経験が少しずつ開いていったようにも思います。ある時はJICA研修員たちの水俣フィールドワークで、農家の仏壇に祈りを捧げているイスラムの彼らを見て、それまでプレゼントすることを躊躇していた相思社絵葉書「路傍の神々」をあわててお渡ししたこともあります。
マルクス主義者の転向話と受け止めていただいてもかまいませんが、私の出自から少し話したいと思います。私の生家は、岡山県南部の低山に囲まれた小さな真戸止山(ルビ:まつばさ)という集落にありました。生家の隣が真戸止山(ルビ:まとべやま)神社で、我が家はその氏子でした。その集落で神道の家は、同じ苗字の我が家と本家と母の実家を含めて3軒しかなく、他の20軒ほどは仏教でした。子どもの私はよその家に盆提灯が下がっているのを見て、我が家にそれがないのは貧しいからだと思っていたのです。我が家は分家で水田が少なく、祖父も父も専売公社のサラリーマンでした。
祖父は祖母のことを前近代的だといって、やることなすこと文句を言っていました。「新聞紙で包むのは不衛生だ」「なんにでもゴマをかけるんじゃない」「今日は天理教、明日は金光教、その前はお寺に行くなんておかしなことだ」等々と、きわめて現代人的センスで祖母を卑しめていました。私は積極的に祖母を嫌ってはいなかったのですが、どうしてこんなに前近代的なことばかりやっているのか疑問はありました。私が大学生になって帰省した時には、ママカリを使ったバラ寿司を必ず作ってくれました。若いころは祖父がいうことが正しいと思っていたのですが、現在私は料理に結構ゴマをふりかけ、娘が帰ってくるとチラシ寿司をよく作り、てんぷらにも野菜を包むにも新聞紙は重宝しています。「これって婆さんの呪いだ」と思うのですが、なぜか祖母のほうがなつかしい思い出になっています。今思えば祖母の宗教に対する姿勢は、鎌田東二さんが言うように、日本人らしいプリミティブな神とのつきあい方かと思っています。
2021年8月に公刊された『水俣病事件を旅する MEMORIES AN ACTIVIST』は、昨年春から取りかかり、秋には最初の草稿が完成して、多くの出版社に依頼してきました。結果から言うとすべて断われて、今年になってからは自費出版を決意していました。たまたま鎌田さんから文章を紹介するメールが来た時に、「自分も本を書いているが自費出版する予定だ」と言いました。それに対して鎌田さんから、「自分の知り合いの出版社に紹介してみる」と言われ草稿を送りました。それから二日後に国書刊行会から出版することが決まり、同時に一般社団法人日本宗教信仰復興会議からの出版助成も決まったと伝えられました。ほんとうにびっくりしています。
私と鎌田さんの関係は、四半世紀ぶりに2018年のシンポジウムの呼ばれたとは言え、親密なお付き合いだったと認識はしていませんでした。さらに唯物論者の私が、「日本宗教信仰復興会議」から助成を受けることは、1990年までの左翼だった私にはありえないことでした。まさに驚天動地にふさわしく、この経過が人生の総括を迫っているといっても過言ではありません。左翼や右翼、唯物論や唯心論、有神論や無神論、こうしたラベリングが無効なものなり、まさに「自分の意思の行方」が問われているのだと思います。妻に言わせれば、「鎌田さんと良い縁があってよかったね。そう力こぶをいれて考えなくても、出会うべくして出会い、なるべくしてなったんだよ」と悟ったようなことをさらりと言います。
「無駄」のもつ重要性 効率では置き換えられない(『中外日報』、2021年4月23日) 弓山達也
教育界では1年間の遠隔授業の試行錯誤を経て、徐々に混乱が落ち着きつつある。当初、対面と同じような授業が模索されていたが、今では遠隔ならではの持ち味を生かした試みがクローズアップされている。しかしその利点の中心は「効率」にある。もちろん「効率」は重要だが、教育の根幹はそこにはないだろう。では同じように、この1年オンライン化が進んだ宗教行事がどうだろうか。
2021年4月17日の東京新聞に「コロナ禍全人的学び喪失」という見出しがあった。記事を書いた蒲敏哉社会部記者の意図は大学生の在籍延長と支援を求めるものであるが、彼は大学生にとって必要なのは既成概念を疑い、人間力を養うことで、それには友人との対話やサークル活動や人を好きになり悩むことだという。オンライン授業を評価しつつも、大学はそれだけではないだろうというのだ。
大学が全人的学びの場かどうかから議論が分かれそうだが、サークルや恋愛は別に大学でなくてもいくらでもできるという反論も予想される。そして各種アンケートを見るとオンライン授業への評価は意外に高い。早稲田大では有益なオンライン授業があったと回答したのは92%で、良い点として自分のペースで学習できる、復習に取り組みやすいがあげられている。東北大では今後も全て、あるいは主としてオンラインを希望する学生が23%で、対面との併用と合わせると68%がオンラインの意義を認め、内容理解・復習の容易さがその理由だという。
一言でいうとオンラインは効率がいいのだ。大学教員としては、いかに教室で非効率的な講義を展開していたかと耳の痛い結果でもある。ただ先の蒲記者ではないが、教育の意義をはかる物差しは効率性だけではないはずだ。翻訳があるのにあえて原書で読んだり、音読したり、教員の無駄に見えるおしゃべりや沈黙など、卒業してから、決して懐かしさだけではなく、その意味を判ることもある。
翻ってオンライン宗教行事はどうだろう。コロナ禍の自粛要請で宗教の現場も信者さんも大変なご苦労をされていることと思う。ただ懸念されるのは、当面自粛、やむを得なく中止・延期が、やがて習い性となって常態化することだ。私事で恐縮だが、実家の墓は愛媛県にあって親戚にお守りいただいている。墓参するにも親戚と連絡を取り、東京の家族と日程調整し、宿を予約してと大事となる。代行やオンラインで済むならどんなに楽だろうかと思わない訳でもない。
要はここでも効率なのだ。しかし先の教育でも宗教でも効率で置き換えられないものがある。かつて青森の松緑神道大和山に赴いた時、新幹線を使って6時間かかったとご挨拶したら、初代教主から昔は汽車で1日2日、その間、思いを寄せてあれを祈らせていただこう、これをお届けしようと思いつつ参拝したのだと強くたしなめられた。
立正佼成会で模範的な会員になるのに何年かかるかと質問をして、一生、いや一生でも無理かもしれないとの回答の前に不明を恥じたこともある。そもそも寝て起きて食べて効率よく済むのなら文化は要らない。教育や宗教のように文化の最たるものは一見無駄に見える何かが必要なのだろう。
最初の話に戻ろう。東工大の受験生向け広報誌のオンライン授業に関するインタビューで「無駄が必要」と述べたら、取材の学生から「なぜ?」という質問が来て、逆に面食らった。宗教もそうだろうが、いかに正確に大量に、そして早く処理するかということ以上に、集う空間やそこで過ごす時間、これらに対する意識の質が重要なのだ。
大重潤一郎監督作品 有料配信のお知らせ 鎌田東二
当法人鎌田東二理事の盟友だった故大重潤一郎(1946‐2015)監督作品の有料配信のお知らせです。ぜひこの機会にご観賞ください。withコロナの時代の今こそ、観てほしい映画です。映像の吟遊詩人が描き切った映像詩三部作です。水のように心に沁み込んでいきます。
【大重潤一郎監督作品 有料配信のお知らせ】
お正月に三が日限定で大重潤一郎監督のデビュー作「黒神」を公開し、おおくの皆様に観ていただき感謝します。コロナ感染拡大もあり、全国各地で上映ができないので、動画共有サイト「Vimeo」にて有料になりますが配信します。今回は『黒神』、『縄文』、『水の心』の3作品です。
1,『黒神』
大重潤一郎監督デビュー作、当時24歳の作品です。「労働とは何か…飯をくうとはなにか…愛するとは何か…生きるとは…人間とは何か!?」を岩波映画の仲間達と自主制作した劇映画。
2,『縄文』
これは縄文の暮らしを現代の眼で記録したものです。私たちはどう生きてきたのか何を失ってきてしまったのか。主演:西尾純、題字:梅原猛、撮影:堀田泰寛、音楽:岡野弘幹
3,『水の心』
ヒマラヤやインド、バリ島の水や風の流れを記録していった。人々が信仰する水の女神サラスヴァティーの気配を、自然と人が交歓する日常信仰を通じて描いた。
予告編は無料公開しています。
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大重潤一郎プロフィール:1946年鹿児島市天保山生まれ。2015年、沖縄市那覇赤十字病院で逝去。山本薩夫監督の元助監督として映画界に入り、主に岩波映画で演出を学ぶ。劇映画『黒神』(1970年)で第一作を飾り、以降自然や伝統文化を主なテーマとして活躍。『小川プロ訪問記』で2003年国際ベルリン映画祭に招待される。「神の島」と呼ばれてきた久高島を舞台にドキュメンタリー映像『久高島オデッセイ』(2006年、2009年、2015年)三部作を遺作として残す。主な作品に、『未来の子ども達へ』『水の光』『風の光』『光りの島』『風の島』『縄文』『The Long Walk for BIG MOUNTAIN』他。
以下、参考資料です。
鎌田東二『世直しの思想』春秋社、2016年。 第五章 世直しと教育と霊性的自覚 第四節 坂本清治の久高島留学センターの教育実践と大重潤一郎の『久高オデッセイ』三部作
鳥山敏子の影響を受けながら、独自の学校教育に取り組んだのが坂本清治である。坂本清治は一九六〇年に神奈川県横浜に生まれた。食糧問題に関心を持ち、琉球大学農学部に進学。大学四年の時、一年間休学して、鹿児島県から山形県までの全国の農山村を見て回り、各地の研究者や行政の担当者から話を聞いたり、農家に住み込んで働いたりした。宮崎県児湯郡木城町では、武者小路実篤が開いた「新しき村」にしばらく滞在もした。一時は大学中退も考えていたが、沖縄に戻って、「帰農論――疎外の克服のために」と題する論文を書き、大学を卒業した。卒業後も、有機農業や創造的な活動をしている教育施設への関心と経験を深め、鳥山敏子の設立した「賢治の学校」に関わってゆく一方で、学習塾を営んでいたが、長年温めてきた「久高島留学センター」を二〇〇一年に設立し、代表に就任した。
この前年、久高中学校は在校生二名のみとなり、廃校の危機に陥っていた。坂本は全国から生徒を募集し、廃校寸前の久高中学校に十四名の留学生を連れてきて「久高島留学センター」を立ち上げたのである。久高中学校の存続はこの坂本清治が創設した「久高島留学センター」なしにはありえなかった。坂本はその後一時期、NPO法人久高島振興会の副理事長も務めたが、二〇一四年三月末に久高島を去った。
「久高島留学センター」は離島型の山村留学機関である。主に中学生を受け入れ対象にしているが、少数ながら小学生も受け入れている。全国各地から久高島に留学してきた子どもたちは、センター長の坂本清治の指導の下、共同生活を営みながら島の自然に触れ、漁やカヌーやシュノーケリングなどの海の活動、畑での野菜作り、三線・笛・太鼓・歌など沖縄の伝統芸能の習得、清掃や祭りなど地域の活動に参加しながら、久高小中学校に通い、勉学に、部活動に励む。島の中で規律正しい共同生活を営みながら、伝統的な人生儀礼や通過儀礼も経験し、子どもたち個々人が直面している課題に向き合い、地域の祭祀や行事などの協働作業にも参加し、地球規模で取り組まなければならない現代世界の課題にも目を向け、それに立ち向かっていける人材の育成を模索している。
坂本清治は、「”核”と”輪郭”をつくる」と題するインタビュー記事の中で次のように述べている。
「久高島留学センターは二〇〇一年にオープンしましたが、当初はここに来る子の八五%~九〇%が不登校の経験者でした。いまは三割くらいに減っています。おっしゃるようにこの島ならではの素晴らしい環境を求めてくる子もいますが、そんな子も不登校の経験のある子も、それぞれが課題を持っていて、不登校そのものは全く問題ではないと思っています。ここに来るきっかけは様々ですが、たとえ親御さんが熱心に勧めても、最終的には本人が『ここでがんばります』と言わない限り、受け入れはしません。しかし、今まで不登校で悩んでいた子ども達のほとんどが、ここへ来ると見違えるように生き生きしたり、農作業をがんばって地域のおばあちゃんたちからも可愛がられるようになります。その意味では、引きこもりタイプの子は結構大丈夫ですし、面白いですね。むしろ難しいのは、非常に粗暴な振る舞いをする子や、常に友達と群れたり、みんなの注目を浴びていないと気が済まない、つまり一人でいることができないような子です。」と述べている。
この「久高島留学センター」の活動を記録したのが奥野修司『不登校児 再生の島』(文藝春秋、二〇一二年)である。ここには、日本の全国各地から集まってきた中学生たちが共同生活をしながら、島の人々と交流し人間として変化し成長していく姿が描かれている。
前掲坂本のインタビューで述べられていたように、当初「久高島留学センター」にやってくる子どもたちのほとんどが不登校児であった。が、その九割以上の子どもたちが、ここでの生活の中で大きく変化し成長し再生した。
久高島は「神の島」と呼ばれてきた沖縄本島西南部の小さな離島であるが、この島にはコンビニもスーパーもない。本屋もゲームセンターもない。子どもたちはテレビやゲームから距離を置き、自然と地域の中に一個の「いのち」として身を置くことになる。そしてそこで、バーチャルなゲーム的世界ではなく、身体的な痛みと歓びを伴う身体知的現実世界に生きることになる。久高島ならではの追い込み漁体験やの飛び込み(オリンピック競技の高飛び込みなどとは全く異なる)、また島の年中行事の祭祀や久高大運動会での島内三〇〇〇メートル走への参加。日常生活も食生活も劇的に変わる。ジャンクフードを食べる暇も機会もなく、魚と野菜中心の食事に変わる。食が変わると体形も変わる。沖縄大学元学長の加藤彰彦はこの「久高島留学センター」を「現代版若衆組」と呼んでいる。
現在の「久高島留学センター」のHPには、次のように久高島と留学センターが紹介されている。「久高島は、珊瑚礁に囲まれた美しい海と恵まれた自然環境を有し、古くから琉球の始祖アマミキヨが降臨し、五穀を初めて伝えたという「神の島」として崇拝を集め、こころのふるさととして親しまれている所です。/この独特の風土、自然に育てられた久高島に留学生を受け入れ、かつて子ども達が大人に成長する過程で課せられた体験や人生の節目節目に通過する儀式(イニシエーション)などを経験する中で、子ども達が学び成長していくことを望んでいます。/また、地域伝統文化学習や自然環境学習を島ぐるみで行うことにより、学校児童生徒の確保、コミュニティ活動の充実、地域住民の連帯意識の高揚、他地域との交流活動、観光の推進、地域の経済振興などが図られ、地域の活性化に大きく寄与することを目指しています。」
この久高島は、沖縄本島東南部に浮かぶ人口二〇〇名ほどの小さな島で、琉球王朝時代から「神の島」として東方ニラーハラー(ニライカナイ)と呼ばれる他界信仰を保持してきた。そこでは十二年に一度、午年に神女(カミンチュ)になるための儀式「イザイホー」が行なわれてきたが、一九七八年以降、後継者難によりその伝統も途絶えている。本年二〇一五年一月五日は旧暦午年十一月十五日のイザイホー開催の日に当たったが、伝統的なイザイホーの祭りは行なわれなかった。が、久高島の聖所である久高殿神アシャギで切実かつ痛切な祈りが捧げられたを大重潤一郎監督のドキュメンタリー映画『久高オデッセイ第三部 風章』(二〇一五年製作)は記録している。
折口信夫は、一九二三年(大正十二年)に書いた「琉球の宗教」の「二、遥拝所―おとほし」の中で次のように書いている。「琉球の神道の根本の観念は、遥拝と言ふところにある。至上人の居る楽土を遥拝する思想が、人に移り香炉に移つて、今も行はれて居る。/御嶽拝所は其出発点に於て、やはり遥拝の思想から出てゐる事が考へられる。海岸或は、島の村々では、其村から離れた海上の小島をば、神の居る処として遥拝する。最有名なのは、島尻に於ける久高島、国頭に於ける今帰仁のおとほしであるが、此類は、数へきれない程ある。私は此形が、おとほしの最古いものであらうと考へる。」と。
この「お通し」が行なわれる最高至貴の聖地が世界遺産に指定されている斎場御嶽で、その斎場御嶽のサンゴ石灰岩の断層が造形した見事な神秘空間である「三庫理」が「神の島」と呼ばれてきた久高島を「お通し」する遥拝所である。
大重潤一郎は、一九四六年に鹿児島県南端の港町の坊津に海の一族の末裔に生れた。生涯海を愛し、海のエロスに感応しながら、「海人(ウミンチュ)」として享年六九歳の生をまっとうしたと言える。岩波映画で学び、一九七〇年に風変わりな劇映画『黒神』でデビュー。その独創的な作品は黒木和夫監督に「十年早い傑作」と称されたが、まったく大衆受けすることはなかった。このデビュー作『黒神』から、「大阪のチベット」と呼ばれた能勢町のミサイル基地建設の反対運動を記録した『能勢~能勢ナイキ反対住民連絡会議』(一九七二年)などを経て、『水の心』(一九九一年)、『風の島』(一九九六年)、『小川プロ訪問記』(二〇〇一年など次々に自然と人間と文明との葛藤と調和への希求を描く記録映画を発表し続けた。
二〇一一年の東日本大震災後、その『黒神』の真価が評価され始め、自然派である大重映画の徹底した表現と訴求力が若者や未来の生き方転換を模索する人たちに拡がり始めた。大重は遺作となった「久高オデッセイ第三部 風章」まで、一貫して大自然の中で慎ましくも逞しくけなげに生き抜いていくいのちの輝きと祈りと祭りとエロスを描いてきた。「気配の魔術師」大重潤一郎の映像のエロティシズムは澄明で永遠性を感じさせるリリシズムを横溢させている。「久高オデッセイ」という名称に物語るように、大重は「オデッセイ」という叙事詩を謳う吟遊詩人であり、映像の詩人であった。
その映像詩は、一九九五年の阪神大震災の経験で深められた。大阪に事務所を構えていた大重は震災後家族の住む神戸の自宅に向かって歩いた。高速道路がへし折れ、ビルも民家も倒壊し粉塵が上がり、無秩序な瓦解した黙示録的な終末世界のような光景が広がっていた。
その信じ難い廃墟の破局的光景の中でも、アスファルトからタンポポが芽を吹き出すいのちのいとなみがあった。大重は猛然と『光りの島』(一九九五年製作)の編集に取りかかり完成させる。このアスファルトの地面の下には縄文時代から続いているいのちが埋蔵されている。大重の野生の感覚はそのことを見逃さなかった。そのいのちを取り戻す!
『光りの島』は廃墟となった神戸とポジとネガの関係にあり、大重の死生観が表出されている。沖縄の無人島(新城(アラグスク)島)の島の光と風に晒され、見えないモノを視、聴こえない声を聴き、「いのちの帰趨」に触れて、その根源に響く「母の声」を聴く。母は死の間際に「死んだらなんにもならん」とつぶやいた。
島を訪れてきた主人公(独演:上條恒彦)はその「死んだらなんにもならん」という母の言葉を反芻し、問いかける。そして終に、次のような「いのち」観に到達する。
「母さん、そうじゃなかったでしょう。『死んだらなんにもならん。』なんて。死んでも生きているでしょう。生きる姿は変わってしまってけれど。しかし、母さんがどうしているか分かって良かった。 母さんよかったね。」
大重潤一郎の遺作となった『久高オデッセイ第三部 風章』においても、自然といのちの循環が言葉ではなく映像で悠久の時間を紡ぐように示されているが、この『光りの島』の中でも同様に主人公は次のように語る。
「この島の自然に始まりも終わりもない。くりかえしがあるだけじゃないか。 地球は生命のゆりかごであるという。しかしそれは生み出すだけではない。死をもひきとっている。そして眼には見えない。耳には聞こえないちがう次元へ導き、計り知れないいのちを生かしている。生も死も全てを包み込んで大きなうねりをくりかえしている。」
「全てが生きている。祖先や様々な霊たちが石の像(かたち)を借りて唄っている。」
ここには鳥山敏子が追求してきた素のままの「いのちのすがた」がある。
大重は処女作『黒神』以降、ワンパターンのように、自然といのちの偉大さとそれへの畏怖畏敬とその息吹に浸されて謙虚にかつ懸命に人々が生きていく姿を描き続けてきた。東日本大震災後、そんな大重映画が別の形で甦った。いのちといぶきといのりの覚醒の中で。「霊性的な自覚」を映像で示す作品群として。
大重は、坂本清治が「久高島留学センター」の設立準備をしていた二〇〇〇年に、『縄文』(福井県三方町縄文博物館常設展示映像)と、久高島に通い続けたカメラマンで民俗学者の比嘉康雄の遺言を記録した『原郷ニライカナイへ――比嘉康雄の魂」を製作した。続けて、二〇〇一年には『ビッグマウンテンへの道』(ナレーション:山尾三省)を製作し、これらを「古層三部作」を名付けた。その後、二〇〇一年に大重は沖縄に移住し、故比嘉康雄氏の遺志を受け継ぎながら久高島と那覇市に住み着いて『久高オデッセイ第一部 結章』の製作に取りかかった。
が、二〇〇四年十月に脳内出血で倒れ、再起不能の状態にまで追い込まれながらも、激痛に耐えつつ、半身不随の体に鞭打ち、二〇〇六年に『久高オデッセイ第一部 結章』を完成させ、さらに二〇〇九年に『久高オデッセイ第二部 生章』を、二〇一五年六月には『久高オデッセイ第三部 風章』を完成させ、同年六月二十一日に久高島で初上映会を開き、七月五日に東京両国の劇場シアターΧで島外初上映会を開催した。
長篇記録映画『久高オデッセイ』三部作は、「神の島」と呼ばれてきた久高島の祭祀=祈りと生活=暮らし(漁労・農耕など)を島の自然風土の中で繊細・丁寧にドキュメントするものである。この久高島を十二年間にわたって記録する『久高オデッセイ』三部作は大重映画の到達点であり集大成であり、前任未踏の「沖縄文化論」である。
『久高オデッセイ第一部 結(ルビ:ゆい)章』は、二〇〇二年から二〇〇六年まで撮影された映像を元に、二〇〇六年、国際宗教史宗教学会の学術大会において初上映された。久高島の祭祀と生活、日常(ケ)と非日常(ハレ)の両方を追いかけながら、島の年中行事の記録とともに、特に男性漁労祭祀の中心人物であった「ソールイガナシー」と呼ばれる男性最高神役福治友行の退任を記録している点で特色がある。
続く『久高オデッセイ第二部 生(ルビ:せい)章』は、二〇〇六年から二〇〇八年まで撮影された映像を元に、二〇〇八年六月に東京大学理学部小柴ホールで行なわれた東京自由大学設立十周年記念特別行事「地球温暖化防止シンポジウム~地球温暖化―宇宙からの視点」シンポジウムで初上映された。この第二部の特色は、「ハッシャ(法者)」と呼ばれる島の男性役職が定まり(ハッシャ代行の一人は第三部の副主人公的な内間豊)、「イラブー漁」と「イラブ燻製」が始まったことと、イザイホーによって「神女」(カミンチュ)となった女性神役三人の定年(七〇歳)による退任儀式「フバワク」が行なわれたことの記録である。
遺作となった『久高オデッセイ第三部 風(ルビ:ふう)章』は、二〇一二年から二〇一五年一月まで撮影された。この第三部では、島に誕生した内間豊(第二部のハッシャ代行)映子の長女内間菜保子の誕生と西銘亜希という「ファーガナシー」の魂を受け継ぐとされる若い神女(カミンチュ)の誕生が描かれている。二人の若い女性のいのちがどのように島の未来を変え、つなぐ力になるか、希望と期待と光明とともに映画は閉じられる。また、久高島を訪れた船上生活を営む谷龍一郎一家の暮らしぶり、ライフスタイルについての映像も、この『久高島オデッセイ』三部作という「海の映画」の核心を衝いている。
とりわけ第三部では、歌うような、あやすような、癒すような、せつないチェロの響きが奏でられ、荒れ狂う白馬の台風や無限を感じさせる朝日やノスタルジーと悲しみを湛えた夕日や島の子どもたちや神女たちや海人たちの日常が描かれる。その島のさまざまなるいのち。この映像が伝えているのは一貫して、「いのちのすごさ・とうとさ・ゆたかさ・おもしろさ」である。台風と海亀の産卵と植物や花のシーンがそれを証ししている。
この作品の最後に大重は自らナレーターとなって次のように語る。
「地下水脈がわき出るような歌声であった。 祭りは途絶えているが、祭りの命は息づいている。祭りは人間が生きている限り行われる。 生きていることの証が祭りである。 やがて、違った形で復活するだろう。十二年間待っていた島の姿を確認した。
東の海の向こうには、ニライカナイがあると言われている。 しかし、この島こそが、この地球こそが楽園ニライカナイではないか。地球の七割が海である。 陸地が海によって、繋がっている。海に育まれている久高島は、姿を変えながらも、脈々と命を紡いでいた。」
第三部冒頭では、坂本清治が「久高島留学センター」の子どもたちを含む久高中学校生徒を指導しながら追い込み漁をする場面が描かれている。坂本清治の貴重で未来的な教育実践は、『久高オデッセイ』三部作の中にしかと刻み込まれている。
『久高オデッセイ第一部 結章』の中に海亀が出てくる。その海亀はイノー(礁地)の中で海に戻れずどうしていいかわからず戸惑っているように見えた。そして遺作『久高オデッセイ第三部 風章』の最後に出てくる海亀は涙を流しながら産卵を終え、後ろ足で盛砂を固め、わが子である卵を保護して堂々と久高島の東の浜を後にした。
大重潤一郎はこの海亀のように『久高オデッセイ』三部作を産卵し、堂々と彼の好きな海に還っていった。鳥山敏子の教育実践や著作がそうであったように、大重の魂は、この映画の中に、彼の映画人生の全作品の中に一つ一つの卵=魂子として生き続け、後続する者に新鮮ないのちの水と風と空気を惜しげもなく絶やすことなく与え続けているのである。
心の復興と祈りの次元(『曹洞宗報』991号、2018年4月) 島薗進
東日本大震災では、宗教界の支援活動がこれまでになくよく報道された。伝統仏教の支援活動も注目される機会が多かった。これは一つには、阪神淡路大震災以後、宗教者側が災害支援活動に親しみ、支援の力を充実させてきたということがある。他方では、平常時から地縁や血縁の絆が弱まってきて、他者の支援を必要とする人々がますます増大しているということにもよる。水俣の経験は、「心の復興」や「人間の復興」において、人間生活の宗教的な次元が重要であることをよく示している。福島原発災害の被災地においても、このような祈りの側面の意義が今後ますます認識されてくるだろう。
東日本大震災と福島原発災害から七年を経て、新たな防潮堤が築かれたり、復興住宅が建ったり、産業が誘致されたりするなど物財の復興は進んでいるように見えるが、「心の復興」あるいは「人間の復興」となるとどうだろうか。
東日本大震災では、宗教界の支援活動がこれまでになくよく報道された。伝統仏教の支援活動も注目される機会が多かった。これは一つには、阪神淡路大震災以後、宗教者側が災害支援活動に親しみ、支援の力を充実させてきたということがある。他方では、平常時から地縁や血縁の絆が弱まってきて、他者の支援を必要とする人々がますます増大しているということにもよる。
行政や医療・ケア機関には「心の復興」や「人間の復興」のための施策を期待したいが、行政や医療・ケア機関にできることは限られている。地域住民や地域のさまざまな集団に、また外部からの支援団体や支援者に期待せざるをえないところが大きい。宗教や宗教的なものの役割が見直されているのは、こういう理由にもよっている。
注目すべきことの一つは、原発災害の被災者のストレスがとくに大きいと報告されていることである。一般に自然災害と比べて公害など人為的な災害の場合、ストレスが大きく長引きがちだ。企業や国が加害側である災害の場合、被害の実態の把握も原因究明もなかなか進まない。そのため、被害を実感している人とそうでない人との間の認識が大きくずれてしまう。立場が違うと話がしにくくなる。それがまたストレスになり、被害を受けた人、受けたと感じている人の苦渋は一段と大きくなる。
一九五〇年代に起こった日本最大の公害である水俣病では、まさにこうした事態が長期にわたって続いた。有機水銀の摂取に由来するさまざまな症状に苦しむ被害者と、加害企業であるチッソの存続を願う人々の間に対立が生じ、被害を認めるのに、また原因究明に長い時間がかかった。今もなお患者の認定をめぐる訴訟が続いている。
だが、水俣病では「心の復興」や「人間の復興」にあたる動きも生じた。「もやい直し」という漁師に身近な用語を用いて、絆を結び直す和解の動きが起こった。そこで大きな役割を果たしたのは故原田正純さんのような医師であったり、故石牟礼道子さんのような作家だったりした。石牟礼さんの作品では、『苦海浄土』以来、つねに祈りのトーンが基底を流れている。宗教性をたたえた表現が、和解への動きの牽引力となった。
一九九〇年代には石牟礼さんも交え、「本願の会」という集いができた。この集いでは、杉本栄子さんや緒方正人さんのような地元の漁師が大きな役割を果たしている。「本願の会」といっても浄土教の教えが直接、念頭に置かれているわけではない。だが、地域で昔から受け継がれてきた信仰心が強く意識されている。
水俣の経験は、「心の復興」や「人間の復興」において、人間生活の宗教的な次元が重要であることをよく示している。福島原発災害の被災地においても、このような祈りの側面の意義が今後ますます認識されてくるだろう。
自然に属する人間の位置(こころの未来60;2017年12月4日付徳島新聞朝刊) 鎌田東二
カトリック教会トップのフランシスコ教皇が2015年年5月に出した回勅『ラウダート・シ~ともに暮らす家を大切に』の中で、「総合的(インテグラル)エコロジー」と「エコロジカルな霊性」の必要を説いている。それと同様の主張を、イギリス在住の思想家であり社会活動家のサティシュ・クマールが『人類はどこへいくのか~ほんとうの転換のための三つのS〈土・魂・社会〉』の中で、「総合的(ホリスティック)エコロジー」として説いている。クマールは、そこで、「土と魂と社会の三位一体」のケア(世話・気遣い)サイクルを提唱している。最も重要な行動変容は「エゴ(ego)」から「エコ(eco)」への脱皮である。ギリシア語の「オイコス(oikos、「家」の意味)」から「エコロジー(生態学)」と「エコノミー(経済)」の2つの語が派生したように、本来同根であったエコロジーとエコノミーとを再結することが地球と人類の未来を持続可能なものとする。(本記事は、2017年12月4日に徳島新聞朝刊に掲載したものである)
エコロジカル・ディスタンスとフィジカル/メンタル/スピリチュアル・ディスタンスとソーシャル・ディスタンス(鎌田東二編『身心変容技法シリーズ第3巻 身心変容と医療の原点と展開』第二節、日本能率協会マネジメントセンター、2021年3月末刊行予定) 鎌田東二
新型コロナウイルスのパンデミックにより世界的に「ソーシャル・ディスタンシング」が推奨されるようになり、人間間のコミュニケーションや交流に深刻な変化が生じている。しかしこの「ソーシャル・ディスタンス」の前に「エコロジカル・ディスタンス」があり、それを基盤にしつつ人類は「フィジカル/メンタル/スピリチュアル」なディスタンスの構築をはかってきた。その関係構造をよくよく認識し、それに基づいた“new normal”な行動様式に行動変容しないかぎり、同じ過ちを繰り返すことになる。(本論考は3月23日に発売される『身心変容技法シリーズ第3巻 身心変容と医療/表現』(鎌田東二編,日本能率協会マネジメントセンター)第2節である)
新型コロナウイルスのパンデミックにより、「ソーシャル・ディスタンシング」(社会的距離を取ること)が奨励されるようになった。感染拡大を防ぐために、「密集・密接・密閉」という「3密」を避けて、車間距離を取るように、身体的・社会的距離を取るということである。ソーシャル・ディスタンスを守らない者は、罰せられないまでも、嫌がられ、距離を取るように指摘されるという社会情勢である。ウイルス感染を防ぐためには、「隔離」がもっとも効果的な方法とされるが、生命維持活動にとって、徹底した隔離も孤立もともに死を意味する。その隔離や孤立の反対が合一や密である。とりわけ、「三密加持・入我我入・感応道交・我即大日」などなど、宗教的思考も志向も、究極の「密」を求めてきた。
2020年に世界中で巻き起こった「ソーシャル・ディスタンシング」の奨励という思いがけない事態は、逆に、身心変容技法の一つの特質を露わにする結果となった。それは、特に密教の「三密加持」とか、あらゆる神秘主義が包含する「神秘的合一」とかの、「密」とか「合(融合・合体・融即)」とかが示している究極的境地(境涯)の特異性や独自性を露わにしたからである。
これまで、「身心変容」の究竟として挙げられてきたのは、神仏などの究極的・根源的・全体的存在と一体になるという境地であった。多くの宗教は合一や密集を重要な教義や儀礼の特色とする。つまり、できるかぎり、距離を縮めることが救済や身心変容につながるという思想や技法が一つの伝統として存在する。韓国での最初期の新型コロナウイルスの感染拡大が「新天地イエス教会」というキリスト教系新宗教での集団儀礼にあったという感染拡大の事例を例に出すまでもなく、密集・密接・密閉などの「3密」状態の創出は、祭りや典礼などの儀礼を活動の中核として持つ宗教の重要な特質である。フィジカル(身体的)・メンタル(心理的)・スピリチュアル(霊性的)な諸レベルでディスタンス(距離)をシフトすることにより、解脱や救済を得ようとしてきたのが宗教的な方法論であったと言うことも可能である。先に見た洞窟における獲物の動物に「成る」というシャーマニズム的儀礼もそのプロトタイプ的な事例であった。
そのことを順序立てて、考えてみよう。大きく捉えれば、地球上では、鉱物・植物・動物たちが相互に関わり合って、地球環境を形作っている。その相互依存性・相互関係性は、俯瞰的かつ総合的に見れば、エコロジカル・ディスタンスによって、絶妙なバランスを保っている。したがって、地球上のあらゆる存在者はこのエコロジカル・ディスタンスの均衡の中にある。
しかし、縄文時代のような狩猟採集時代はいざ知らず、弥生時代以降のような稲作農耕社会となり、定住的な村落を作ったり、都市文明を構築していったりすれば、必然的に「3密」状態が生まれる。人々が密集し、密接に関わり、密閉するさまざまな空間が創造されてくる。タワーマンションのような高層建築はその代表的な密空間である。
それをもう少し歴的な視点から俯瞰的に見れば、「ギルガメッシュ」の叙事詩にあるように、シュメール文明の英雄王となる超人的な能力を持つギルガメッシュは、森の神フンババを殺害して都市の王となった。つまり、森の破壊が「3密」空間を生み出す起爆剤となったということである。そして、原生林を伐採し、野生動物を殺害し、農耕を営んで大量の都市人口を養った。そして、その「3密」化していく社会を強力な接着剤としての王権神話と王権儀礼によって結束させた。こうして、アニミズムやシャーマニズムやトーテミズムのような原始宗教は、強力な王権によって階級化された都市国家宗教に取って替わられることになる。
ここでは、宗教を含む人間のいとなみはすべてエコロジカル・ディスタンスの侵犯を含むと言える。宮崎駿監督の映画『もののけ姫』(1997年製作)のように、シシ神は殺害され、原始の森は改変されて元に戻らない。その文明の発展ないし破壊的展開は、現代の地球温暖化を含む気候変動の大きな原因となっている。
だが、『もののけ姫』では、シシ神の住む森は、もともと神の棲む森として畏れられ、めったに人が入らないタブーの霊地・奥山とされていた。その原生林の森に銃を持った武士や権力者たちが押し入り、森林を破壊し尽くし、シシ神を殺害する。これは人気アニメーション『もののけ姫』の物語的筋書きであるが、大局的に言って、そのような事態が地球上で、人類史上に展開したということである。そのつけを、今、新型コロナウイルスのパンデミックという形で受け取っている。地球がいとなむバランスシート(貸借対照表・収支決算書)は、人間的欲望が作り出す人間的なバランスシートとは異なる。根本的に、エコロジカルなバランスの上に(中に・基に)成り立っているからだ。そのことを、安藤昌益や南方熊楠や宮沢賢治など、自然と人間との関係を問いかけた多くの先人たちは鋭く指摘してきた。
植物は鉱物から栄養を得、枯死して土に戻る。動物も多くは植物や天敵の動物を摂取して、死んで土に戻る。この循環過程は大変複雑で、バクテリア、地衣類、コケ類や枯死した植物や動物などの多様な生物の死骸の分解により有機物と腐植物が溜まり、さらに水や空気などの働きが加わり、複雑多様な混合物としての土(土壌)が生まれる。それらはすべて、エコロジカルなバランスを保ちつつ、絶妙のコンビネーションと安定的な循環と微妙な変化を生み出してきた。
ここまで議論の要点をまとめておくと、次のようになる。
①生きるということは、「距離(distance)」を持つ(保つ)ということである。
②哺乳類の場合、母の胎内から生まれてきて、原初的一から分離する。セパレートされる。
③そして、授乳など母子密着の時期を過ごし、徐々に距離を取ることを覚えていく。
④それが、社会化していくということである。
⑤社会化とは、個体化・個性化であり、自立の過程である(人間の場合、その過程に「実存的痛み」が生まれる)。
⑥したがって、「社会的距離」の形成の前に、あるいは下に、その基盤に、エコロジカル・ディスタンスがある。
⑦ソーシャル・ディスタンスの前に、生態学的距離がある。
⑧ゆえに、「社会的距離」は「生態学的距離」の上に成り立つ。
⑨エコロジカル・ディスタンスとは、棲み分けとか、テリトリーとか、共生とか、食連鎖とも言われている構造であるが、古代シュメール文明の『ギルガメッシュ』叙事詩における森の神フンババ殺害や宮崎駿監督『もののけ姫』(1997年)における「シシ神」殺害に象徴的に表現されているように、それを人間の創り出す「社会的距離」(「3密」も「3密」回避もその一例)が壊してきた歴史がある。
⑩20世紀末から顕著になってきた気候変動・地球温暖化やCovid19や新型鳥インフルエンザの流行などの事態は、社会的距離と生態学的距離の侵犯とフィードバック、すなわち生態系サービスの破壊である。
距離(ディスタンス)関係図
こうした生態系サービスの恵みを、古代の宗教思想は独自の思想的命題として表現している。たとえば、日本天台宗は、平安時代以降、天台本覚思想と呼ばれる特異な即身成仏思想を生み出し、「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏」という命題を主張した。仏の目から見れば、草木国土もみな本来ほとけであり、成仏している。これは、究極のエコロジカル・パラダイス(生態学的楽園・楽土)の思想である。
だが、事態も問題も単純ではない。そのような本来心を持たない「無情・非情」の存在者であるとされる「草木国土」もみな「成仏」する、いや本来成仏するまでもなく本来的に仏であるという意味で「不成仏」であると考えられるようになる「草木国土」とは違って、心を持つ有情の典型と言える人間は、ほぼ全員「煩悩」の塊であり、その煩悩はこうした絶妙のエコロジカル・パラダイスを成り立たせているエコロジカル・ディスタンスを破壊していく原動力にもなってきたという点に深刻な問題の在所がある。多くの宗教は欲望のコントロール(制御)を指示し、その方法を示したが、しかしながら、それが全体としてうまく守られ、実現することはなかった。
実際、仏教は五戒の第一に「不殺生」を掲げてきたが、しかし、人類史はさまざまな「殺生」の拡大再生産の歴史であったからである。日本の仏教僧で殺生を伴う「肉食」を避けている人はごく稀である。そして、今なおその「殺生」は拡大しつつある。その意味で、エコロジカル・パラダイスも、エコロジカル・ディスタンスも壊れ続けているのが人類史である。現今の「ソーシャル・ディスタンシング」という要請も、そのような「エコロジカル・ディスタンス」の破壊の上に成り立っている。
宗教はその破壊を止めようとした面もあるが、その反面で拡大・拡張した面もある。暴力や宗教戦争と結びついた点が拡大・拡張であり、その歯止めとなった思想や実践が破壊防止の動きである。後者における最近の事例を見てみよう。
たとえば、2015年にフランシスコ教皇の出した回勅『ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に』(2015五年5月発表、日本語訳、瀬本正之・吉川まみ訳、カトリック中央協議会、2016年8月刊)は、カトリック教会の最高指導者自らがエコロジカル・パラダイスを求め、エコロジカル・ディスタンスを維持しようとする思想・実践運動であった。
そこで説かれているのは、「総合的エコロジー」の思想と実践である。フランシスコ教皇は言う。われわれは地球という共同の「家」に兄弟姉妹として分かち難くつながりながら生きている。しかし、「自然は一冊の壮麗な本」であるにもかかわらず、それに対して畏怖と讃嘆を忘れ、つながりと分かち合いのバランスは崩れ、深刻な環境破壊と貧困・格差が進行し、負のスパイラルの悪循環に陥っている。そこで被造物(自然)の苦悩に向き合う「エコロジカルな霊性」の立場で痛みや苦しみを分かち合い、友愛と美と節制と気遣い(ケア)の心を以て、新しい普遍的な連帯と地球倫理に向かう新たなライフスタイルを築いていく必要がある、と。
この第一章「ともに暮らす家に起きていること」では、環境汚染、気候温暖化、水質低下、生物多様性の喪失という現代的状況が危機感を持って取り上げられ、それが貧困問題と密接につながっていることを指摘している。続く第二章「創造の福音」では、「創造」が根本的に見直される。いわゆる『旧約聖書』における天地創造の物語においては、天地すなわち自然も人間も共に神の「被造物」として「創造」される。神によって創造された自然も人間も、それぞれに固有の価値を持ち相互依存の関係にあるが、中でも人間は「神の似姿」として創造されたという点で、特別の「尊厳」を持ち、責任をもって他の被造物を配慮(ケア)する存在であるとされる。しかし、その「配慮=ケア」は失われていく。
第三章「生態学的危機の人間的根源」においては、近代の「人間中心主義」により「生態学的危機」に直面した。このような事態に至らせたものは、「技術主義的パラダイム」と「経済成長神話」である。がゆえに、この生態学的危機を脱するためにはそのようなパラダイムや「神話」からのシフトと小規模生産体制の形成を伴う「文化的革命」が必要であると主張される。
それに続く第四章で、回勅の根本的なメッセージである「総合的なエコロジー」が説かれる。また、第五章「方向転換の行動と指針」で、シフトのための具体的方策が示される。まず、環境と経済と社会を調和的に維持していくための「共通善」の共有と倫理の確立が必要であり、対話に基づく環境政策と地域政策が必要である。
こうして最終章に当たる第六章「エコロジカルな教育とエコロジカルな霊性」において、未来社会と未来世代に調和的に接続できるエコロジカルな教育と霊性の育成が説かれる。そして、苦悩の中に沈んでいる被造物世界がそこから解放されて「永遠の安息日」に向かっていく希望とビジョンが示される。そして最後に、詩によって、「地球のための祈り」と「被造物とともにささげる祈り」が捧げられる。
フランシスコ教皇とほとんど同様の主張を、イギリス在住の思想家であり社会活動家のサティシュ・クマールは、『人類はどこへいくのかーほんとうの転換のための三つのS〈土・魂・社会〉』(原著、2013年、田中雅之訳、ぷねうま舎、2017年)において主張している。クマールはそこで、「土と魂と社会の三位一体」のケア(世話・気遣い)サイクルを提唱する。
クマールは最初「非暴力」を説いたガンディーに共感し、次に仏教哲学を学んだ後、ジャイナ教の僧となり、仏教とジャイナ教に共通する原理を「非暴力と自己抑制と自己鍛練の原理」に見出す。だが、「植物、動物、人々に対して、傷つけることなく非暴力を実行することは、自然界、内的世界、そして社会と私との関係を、直ちに強化する道」であることを悟り、「非暴力と自己抑制と自己鍛練の原理」を全体的に理解し、その統合の実現を図る、自己解放が社会解放となる「総合的エコロジー」の道を歩み始めるのである。
自己解放に至るには「自己鍛錬」が不可欠である。「自己鍛錬を行なわないかぎり、存在から生成への自己転換はできない」とクマールは指摘する。さらに、加えて、「すべての精神的な実践は、自己鍛錬のかたちをとりつつ、魂を強め、あらゆる不測の事態に対処できる、自身の弾力性を培う」と主張する。クマールが言う「すべての精神的な実践」や「自己鍛錬」こそ、身心変容技法の活用である。
そして、魂のケアと土のケアを両輪にしながら、自然の中に生きる人間社会のケアに取り組み、そこに、インドの詩人タゴールに倣って「詩的想像力」のはたらきを注入する。「土の世話をし、魂に養分を与え、社会を育むためには、詩の魔力、歌の呪文を通して現れてくる想像力の力なしでは、準備不足」であると捉えるからだ。
『ラウダート・シ』の巻末でローマ教皇は祈りの詩を表し、同様に、クマールも祈りを内包する詩を表現しつつ、「ソイル(soil土)・ソウル(soul魂)・ソサイエティ(society社会)」の「三S」の結節と具現化を図ろうとするのである。
こうして、「3密」回避ならぬ「三S」の結合によって、「エゴ(ego)」から「エコ(eco)」への道を歩むのである。「大規模経済」こそが、その実、総合的には「不経済」であると仏教やジャイナ教やシューマッハーの経済学に依拠しながらクマールは指摘する。グローバル化をはかる資本主義経済は大規模経済の不経済という矛盾を糊塗している。
もともと、語源的には、ギリシア語の「オイコス(oikos、「家」の意味)」から「エコロジー(生態学)」と「エコノミー(経済)」の二つの語が派生した。それゆえ、本来、エコロジーとエコノミーとは同根である。であれば、両者を再度接続し、合一させることは不可能ではないはずだ。だから、エコライフスタイルは、この水の惑星の全体を共通の「家」とするエコノミカルな生き方と暮らし方をうみだすことができるはずである。DNAからみても、水の惑星においては、「すべての種が親類縁者」である。そこで、「私たちの家に私たちを帰」し、「地球という身体と結合させる」必要がある。このクマールの主張はフランシスコ教皇の『ラウダート・シ』の提言とほとんど同一であると言っていい。
いのちを生み出したこの水の惑星においては、いのちが依拠する生態学的基盤の安定的循環が何よりも重要である。もちろん、隕石の落下による大規模な気象変動などが起こり、恐竜が絶滅したという証拠も挙げられているので、常に生態学的循環が安定的に維持されてきたわけではない。しかしながら、多様な生命種が食物連鎖や相互的な環境依存を通して共生的環境を生み出してきたことも事実である。そして、その共生を目指すとすれば、欲望の肥大を抑え、内的平和を実現してく必要がある。クマールは、「あらゆる種類の恐怖からの自由と内的平和の実現が、平和な世界への第一歩」であり、「生態系の平和は、世界平和のために必要不可欠」と述べている。そして、「瞑想は魂を癒し、世界に平和をもたらすための一つの方法」とも述べている。
ここに、瞑想と医療が結びつく切端がある。瞑想(meditaion)と医療(medicine)とは、実は相互に密接に関係し合っている。というのも、瞑想の根幹に呼吸法があるが、呼吸こそが身体と世界を繋ぎ、瞑想と医療を接続するはたらきであるからだ。近年、マインドフルネスを含め、瞑想が医療的効果を持つことがEBM(evidence based medicine)としても確かめられてきているのは、身心変容技法シリーズ第1巻『身心変容の科学~瞑想の科学』(サンガ、2017年)でも詳細に論じた通りである。
こうして、いのちのいとなみは、根本的にエコロジカル・ディスタンスに基づき、人間の場合、その上に、フィジカル、メンタル、ソーシャル、スピリチュアルなディスタンスの多層性を持つ。身体的なレベルでは、祭りとかの儀礼や性的交感のような密集・密接が起こり、それにより心理的な距離(メンタル・ディスタンス)も社会的な距離(ソーシャル・ディスタンス)も変容する。そしてもっともデリケートでありながら、強靭に距離を縮めるはたらきを持つのがスピリチュアル・ディスタンスのレベルである。
スピリチュアルな次元では、時間と空間を多層多重に縮約・縮減・圧縮でき、一体化する可能性を持つ。世界中に展開していった多様な宗教儀礼や宗教思想は、そのような一体化や合一化や「密」の世界を開示している。密教の三密加持も諸宗教の祈りも、距離を縮める手法である。そして、それによって、医療にもつながる活力の根源的なチャージや再生を果たすのである。宗教的な身心変容技法は、そのようなスピリチュアル・ディスタンスを自在に伸縮させる技法を内在させている。そして、そのスピリチュアル・ディスタンスは、エコロジカル・ディスタンスを侵犯しない回路を設定する。たとえば、真言密教の大日如来の身口意の「三密」と衆生の身口意の「三業」を合一に導く「三密加持」は、胎蔵生曼荼羅と金剛界曼荼羅の両界曼荼羅として描かれるような包摂と差異、あるいは全体と個体との調合・調和を企図しているからである。
Social Inclusion for Muslims in the Arab World and Japan (アラブ世界と日本のムスリム社会における共生問題)by Dr. Makoto Mizutani
One can well say that a call for more mercy and spiritual care, with a heightened role of religions, has become a part of a modus vivendi in this twenty-first century. Hence, it may be that Muslims in Japan hope for the inclusion of Japan in this new march in the international arena.
Arab Responses to the Issue of Social Inclusion
Although “social inclusion” is a rather broad term, Arab responses to this issue have been articulate. The United Nations World Summit for Social Development in Copenhagen in 1995 promoted the idea of inclusive society as “a society for all,” in which every individual, each with rights and responsibilities, has an active role to play. Such an inclusive society is equipped with mechanisms that accommodate diversity and enable people’s active participation in their political, economic, and social lives. As such, it overrides differences of race, gender, class, generation, and geography and ensures equal opportunities for all to achieve their full potential in life, regardless of origin.
Enshrined in the UN 2030 Agenda is the principle that every person should reap the benefits of prosperity and enjoy minimum standards of well-being. This is captured in the seventeen sustainable development goals that are aimed at freeing all nations and peoples and segments of society from poverty and hunger and also ensuring, among other things, healthy lives and access to education, modern energy, and information. The agenda embraces broad targets aimed at promoting the rule of law, ensuring equal access to justice, and broadly fostering inclusive and participatory decision making.
Now let us turn to some of the main Arab Islamic responses to these issues.
Makkah Document of 2019
The Muslim World League convened an international conference titled “The Values of the Middle Way and the Moderation” in May 2019, gathering approximately twelve hundred participants from 139 countries. It issued the Makkah Document (Wathiqa Makkah al-Mukarrama, https://ar.wikipedia.org/wiki/Makkah_Declaration [in Arabic]), which contains the following points:
- Religious diversification is rooted in Islamic heritage from its beginning.
- Human beings are equal and share one origin.
- The fight against terrorism and coercion should be continued.
- Support of cultural and religious diversity.
- Call for a dialogue among civilizations.
- Call for female empowerment and social participation.
- Call for a dialogue among youths, particularly young Muslims around the world.
The basic tenet for social inclusion, or in Arabic, al-Ta‘ayush, is evident in the document, though the term itself does not appear.
Doha Conference on Social Inclusion
The Ibn Khaldun Center for Humanities and Social Studies at Qatar University has been organizing conferences on a more local level, the most recent of which was convened in Doha in March 2019 under the title “Civilizational Inclusion or Harmonious Living among the Peoples of the Middle East (Mu‘tamar bi-al-Doha hawla al-Ta‘ayush al-Hadari bayna Qawmiyat al-Sharq al-Awsat).” Here the term “inclusion” may be understood as “harmonious living,” as the Arabic term al-Ta‘ayush can be construed in either way in this context.
Statement on Inclusion in Islam
The International Islamic Fiqh [Law] Academy (http://www.iifa-aifi.org/5002.html [in Arabic]), established by the World Islamic Summit held in June 2006, issued its “Statement on Inclusion in Islam” in November 2018. It presented twenty-six arguments claiming that Islam has been based on the concept and value of inclusion from its inception. Here the term al-Ta‘ayush is squarely employed in the title of the statement, and it is firmly codified in the context of Islamic law, as in the well-quoted Qur’anic verses, “I do not worship what you worship. . . . You have your religion and I have mine” (109:2, 6).
Piecemeal Responses to the Question by the Muslim Community in Japan
No major statement or declaration has been issued by native Japanese Muslims as of May 2020, as their number is only about twenty thousand, while the total number of all Muslims in Japan reaches around two hundred thousand, including non-Japanese residents. The primary objective in this section, then, is to review some of the main aspects of social inclusion among Muslims in Japan, both Japanese and non-Japanese.
1. International terrorism has worked to exclude the Muslim community in Japan, just as it has around the globe in some locations. Some have felt they need to defend themselves from any misunderstanding that Islam is the direct source of radicalism and direct action, which many terrorists themselves have claimed. Regarding this harassment among the Muslims in Japan, the Japan Muslim Association, for example, has issued a number of statements blaming the radicals and declaring that Islam as such has nothing to do with such actions or ideas. The reaction from the general public regarding terrorism has been rather modest toward the Muslims in Japan. The fact that the Muslim community is an absolute minority in the society may contribute to this mitigated reaction, though it may also be because the Muslims are trying to behave themselves in social relations. I, for one, have kept saying that the best policy for the Muslims in Japan is to try their best to be good citizens in this society.
2. What struck the Muslim community in 2010 was the leakage of Muslim information gathered in the police offices and publicized on the Internet, which was then published in book form (Ryūshutsu “Kōan Tero Jōhō” zen dēta [Leaked police terrorism info: all data], Daisan-shokan, 2010 [in Japanese]). This collection showed clearly that the police had been targeting Muslims in their security operations. No further details have been disclosed that indicate who did what. But without doubt, it alerted the Muslim community to be wary in dealing with the authorities, which kept sending staff officers into Muslim prayer facilities—with the consent of the facility managers, who thought it best to cooperate with the authorities and prove that they had nothing to hide. This can be rather ominous when one remembers the 2012 arrest of a non-Japanese man praying at a Christian church in Kawasaki City, who was convicted of not carrying his passport as required by law.
3. Special attention should be drawn to issues relating to the living conditions of Muslims in Japan, such as halal foodstuffs, education in public schools, funerals and graveyards, and medical treatment, among others.
- We note that there has been a quick development of a halal food-supply system and a growing number of halal restaurants, which has eased the level of tension that once existed quite widely.
- Some distinguished efforts have been made to introduce school texts and materials that cover the questions of international cultural divergence, and we hear some cases of preparing a separate room for fasting Muslim children during the month of Ramadan, while their classmates are taking lunch in an adjacent room.
- Islamic graveyards have been newly constructed here and there as land lots become available. This might happen, for example, when Buddhist temples that suffer from a lack of funds also choose to sell some of their land. Although it is not problem at present, should the Muslim community expand quickly with an increase of Muslim immigrants, it is possible that this could become a topic of increasing concern among the Japanese people.
- Medical treatment for female patients is a serious problem if one looks at it squarely. However, the dire need for medicine and the urgency of medical matters are usually what prevent them from becoming social problems on a large scale.
- LGBT is a complex case, as Islam essentially stands against it. The LGBT population in Japan is said to be approximately ten million, far more than the number of Muslims (https://www.outjapan.co.jp/lgbtcolumn_news/news/2019/1/5.html [in Japanese]). It would be a test case if the Muslims were to choose to side with the minorities while suspending the position based on their own creed. This is yet to be seen, but a choice is in their hands.
Academic Research
It appears that academics are leading the discussion on social inclusion of Muslims in Japan. Although the Japanese term kyōsei refers to social inclusion, it is used primarily by researchers rather than activists on the ground.
The Japan Association for Middle East Studies was to have its annual general assembly on May 16, 2020, under the title “Human Inclusion and Religions,” but the project had to be canceled because of the untimely development of COVID-19. The meeting would have gathered both religious and nonreligious academics and activists and was intended to be held in a university where religious studies are much stressed. It would have taken place on the same date as the UN Peace and Inclusion Day, as the UN convener in Tokyo called it.
Mention should also be made of an organized study on the gender issue in Islam (https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16H01899/ [in Japanese]). The project—centering around nine designated areas: thoughts, laws, family systems, education, social development, politics, medical care, labor, and archives (recording of events)—was kicked off in 2016 with government subsidies. The intent of the research is to establish studies on gender questions as a vital aspect of justice in Islam, and it is administered mainly by the University of Tokyo and the Tokyo University for Foreign Studies.
The problem of social inclusion may increase among Muslims in Japan in the future; however, it is currently addressed primarily by individual Muslims, and even then it is rather uncommon, based on the spirit of hospitality among the Japanese public and because the Muslim community is yet too small to generate any major social voice. No hate speeches targeted against Muslims have been reported at this time, though quite a few publications by journalists and analysts blame Islam as a source of terrorism and claim that it may lead to a clash of civilizations.
Hope for a Religious Revival in Japan
What is perceived as a serious obstruction for Muslims in Japan is the low level of religious awareness among the public at large. Muslims, devoid of any missionary institutions, all have a desire to propagate Islam in new lands. However, they must find Japan not to be very promising, where secularism has prevailed for more than seventy years, since the end of the World War II. Now, since the nation has achieved economic recovery and after having suffered a loss of spiritual direction and a decay of morality, there is a genuine wish among many, Muslims and others, to see a religious revival in a new era. Some are even calling for an amendment to the constitution that would allow public schools to teach religion in the classroom. However, this goal is unlikely to be achieved at this time, given more eye-catching issues such as the defense policy.
Nonetheless, we may note a clear turn, around the whole world, toward more inclusion, conciliation, leniency, and mercy, and toward an increased spiritual approach to human life in general. As a clear sign of this, let us have a look at the two photos here. One is a scene of Muhammad al-Issa, Secretary General of the Muslim World League in Makkah, Saudi Arabia, praying at one of the holocaust sites in Germany on January 24, 2020, when he visited there on the occasion of the seventy-fifth anniversary of the release of Jewish detainees in Nazi camps (https://www.bbc.com/arabic/trending-51239625 [in Arabic]). And the other is Pope Francis giving an address at the Hiroshima Peace Memorial Park on November 24, 2019, when he visited Japan thirty-eight years after the last visit by a pope, the late Pope John Paul in 1981.
Although these two occasions were not orchestrated to take place sequentially, they reflect very well a new phase of human community. This increased inclination toward a change in religious roles resulted from the collapse of Communism in 1990 and the 9/11 disaster in 2001. Both events unleashed various dynamics affecting the whole world; in particular, they brought religions and politics closer together. One can well say that a call for more mercy and spiritual care, with a heightened role of religions, has become a part of a modus vivendi in this twenty-first century. Hence, it may be that Muslims in Japan hope for the inclusion of Japan in this new march in the international arena.
Author’s bio:
Makoto Mizutani has a PhD in Islamic Thought and has taught for fifteen years at the Arabic Islamic Institute in Tokyo as academic adviser and has published the ten-volume Works on Islamic Belief (in Japanese) and, most recently, a Japanese translation of The Qur’an in Easy Japanese. He enjoys an intimate understanding of both Buddhism and Islam and serves as an active executive director at the Japan Muslim Association. (This article first appeared in Dharma World, Rissho Kosei-kai International, Autumn, 2020. Vol. 47)
宗教信仰復興の二つの課題 水谷周
戦後の宗教信仰の低調さの原因として、3点ある。第1に、諸宗教が戦前の軍国主義に同調しそれを支援したことについて、国民的な猛省と嫌気が広まったこと。第2に、政策的に政教分離が徹底されて、宗教は社会の片隅に置かれたこと。第3に、諸宗教は遠慮して、社会的な発言や参画を控えるようになったこと。しかし今や時代は大きな曲がり角にある。経済復興だけでは人は満たされず心の充足を求め。自殺大国では自慢にならず真の幸福と満足を希求する。それは心のバランスを取り戻す人間復興の欲求である。また同時に宗教自身の反省が求められ、能動的な社会参画の尽力を自らの責務として取り戻すことが促されている。
山あり谷ありの、80年に渉る長い「戦後」時代が転機を迎えつつある。「戦後」は戦前への猛省が出発点となったように、これからの指針は自然とこの「戦後」時代への猛省が基点となる。その中で宗教の占める位置と果たす役割はどう考えるべきなのであろうか。
一、宗教の低調さの主要原因
日本は無宗教であると、しばしば言われて久しい。外国の入国カードに宗教欄があり、何と書くか戸惑う人が大半であるほどに、宗教への意識も薄くなった。他方、戦後も幾多の宗教諸派が新たに興されてきたし、癒しを求める動きも少なくないので、いわば魂があちらこちらと徘徊し、蠢いていることが実感される。
宗教信仰の低調さの原因としては、3点挙げられる。
第1は、戦前の軍国主義に諸宗教が協力してしまったということである。「神や仏に随分仕えてきたのに、何もしてくれなかった。」という失望感や、嫌悪感が全国に広まった。それには多数の若者を前線に送らねばならなかった遺族の実感も背景にあった。
第2は、国策への協力は国家権力による強制の面が強く、政治と宗教は別だとの感覚も国民全体の実感となっていた。そこへ占領軍の政教分離政策が、徹底して実施された。その頂点は、憲法による公立学校における宗教教育の禁止と、公費の宗教活動への支出禁止である。この新政策を日本国民は、ほとんど抵抗なく受け入れた。そこで宗教はただ学校教育や公的補助金の分野で活動停止しただけではなく、社会的な疎外を受けるまでになっても反発は見せなかった。心の弱い人が信仰するとも言われるようになった。
以上の2点は、よく論じられてきたことであり、これ以上の詳述はここでは不要かと思われる。第3点は、それほどには指摘されていない側面である。
それはあまりに社会的な疎外にあって、宗教界はすっかり意気消沈し、委縮してしまったということである。確かに平和運動に参加するし、例えば安保法制については反対、ないしは慎重論を浮上させたケースはあった。しかしそれは珍しい事例として注目された。一般的には政治社会の動向に対しては、静かにやり過ごすのが穏当な対応と思われているようだ。そして冠婚葬祭などの儀礼に、粛々と従事するのが宗教人のあり方のようにさえ見られるようになった。しかしそれは、政教分離の行きすぎた裏面であり、宗教までが自粛することは憲法上も求められていないのである。やはり国民的な反発の感情を忖度してのことであろう。諸宗教は自信を失ったとも言えそうだ。
以上戦後日本の宗教離れの原因について触れたが、当然近現代社会の発展の基盤である科学が宗教と対立的な立場をとることが多かったという、世界的な状況も看過すべきではない。戦後社会とは、その中での日本の特殊事情である。いわばそれは世界基準を遥かに超えた速度と深度で、経済復興に特化して進むこととなったとも言える。
二、「戦後」の前半と後半
(一)前半の世相
「戦後」の80年という長い時間の全体は、宗教離れの一言で特徴づけられるとしても、その前半と後半ではかなり世相は異なったものであった。前半は拡大期であり、後半は縮小期と言える。その状況を特に若い人のために、ここで改めてはっきりさせておこう。ただし「戦後」の変動に関する社会科学的な書き物は市場に溢れているので、ここでは非常にミクロな観点として、筆者個人の回顧から始めることとしたい。私的なタッチは、それなりに読む方にとっても、身近で理解しやすい面があるのではないかと期待する。
筆者の生年は「戦後」の昭和23年であるので、戦前は未経験である。しかし敗戦後三年目という当時は、まだまだ戦時中の傷跡が町中に満ちていた。生まれは京都の西陣なので、子供の頃より神社仏閣に遊ぶことも多く、例えば近くの北野天満宮もその中の一つであった。そこは菅原道真公で有名な神社で、今も市内の観光スポットである。縁日にお参りに行くと、参道には戦地から復員した傷痍軍人たちが、寄付金集めのために大勢いた。小さな箱を胸にして、参拝客を取り囲むように列をなしているので、何か恐ろしい印象だった。またそれと同時にその様は、戦争の悲惨さを子供心にも十分伝えるものがあった。
この寸描が伝えようとしていることは、要するにまだまだ社会全体は戦時中の延長という調子であったということである。だから日々の世相により、そのまま戦争、敗戦、「戦後」という時代の変遷を身近に感じさせられる生活であった。小学校では「日本は、これからは民主主義の国になるのです、そしてスイスのような平和な国になるのです。」と先生が教壇から説いていたことを鮮明に記憶している。毎日の給食も脱脂粉乳という粉ミルクを溶かしたものと乾パンであった。学校でご飯やコロッケが出るようになったのは、小学校高学年になってからであった。配給の米では明らかに不十分だったが、その違法行為を自らに厳しく戒めた一裁判官が餓死したという悲惨なニュースも流され、子供心に寒いものが走った。
街中では保健衛生がまだまだ良くなくて、疫病予防のために市内を低空飛行で薬を撒くセスナ機が飛び交う音も耳に残っている。今なら農薬DDTの市中散布など、口にするかも知れずとんでもないことだろうが、そのような強硬策も問答無用とばかり強行される時代なのであった。しかしそれも空襲の爆音よりはまだましだと、多くの人は受け止めていたのかもしれない。
以上の実体験を通したものは、小さな窓から見た「戦後」の様子である、国や社会全体の観点から言えば、多くの記録や文献にあるように多様な変革が物語られている。その大半は、軍事占領をしている連合国軍総司令部GHQからの指令のよるものであった。ただし民主化への流れは大正時代からあったので、それが底流となってGHQが要求する新時代への身代わりが順調であった面も否定はできないようだ。そして何よりも、軍国主義から平和主義への大転換こそは、全国民上げての総意であり熱望するところであった。
詳述はもちろんここでは論外であるが、多岐に渉る大変革の諸側面として次のようなものが挙げられる。軍国主義とそれを支えた日本システムの解体としては、現人神であった天皇の人間宣言がまずあり、国家神道、軍隊、独占的な巨大財閥、大土地所有制などの解体と、それに続く農地改革があった。そして民主主義の導入、教育改革などが同時進行していった。
その中で日本人論や日本文化論争も非常に盛んになっていた。その背景は、やはり大きな猛省ということである。日本人の心はまだ封建的ではないか、あるいは内と外の意識が強すぎるのではないか、といったような論点もあった。また日本文化の基底は恥意識であるが、欧米のそれは原罪意識であるといった米国の文化人類学者の分析ももてはやされたのであった。こうしてアジア諸地域への軍事侵略を犯した戦前の大きな責任は、知識人や文化人にもあったという猛省が、彼らを突き動かした。
以上の変貌は大文化革命でもあったのは当然である。それは明治維新と同等の規模と震度と言えるだろう。そしてそれら両者に共通していたのは、新時代へのすがすがしい気運である。それは小学生の間にも強いものがあった。国全体では相当焦りの気持ちもあるが、一人一人が何とかしなければならないという決意を固めていたのであった。
(二)「戦後」の後半
平和と繁栄は、国民一体となれる目標であり、それはほとんど何も議論を必要としなかった。しゃにむに働くしかなかった。そうして1964年には東京オリンピックを成功裏に開催することができて、所得倍増計画も実現され、やがて気が付くとその経済力は世界第二位に上り詰めることとなっていた。終戦まもなくは世界銀行の融資を受けた日本であったが、今やその政府開発援助ODAは世界最大にもなった。
世界の面積の0・25%しかない国土と世界人口の3%(当時50億人とする)という自力によって達成したのであるから、それは真に短時間で実現できた奇跡に近かった。食料に困って配給制度に頼っていたのが、今や多くの途上国に支援する立場となった。日本製品は壊れやすい安物から、世界最高水準の技術の象徴ともなった。このような夢の実現は、1970年代に襲った石油危機も省エネルギーの努力により乗り越えることを可能とした。それほどまでに日本社会と経済は、強靭性を発揮することができたのであった。それは日本人の誇りともなった。
ところが山を登るのに比較すると転げ落ちるのは、容易であり早かった。大きな曲がり角は、一九九〇年当初に到来した。まずは膨れ上がる期待値は過剰な投資を招き、実需を伴わないバブル現象を引き起こしたが、それがもろくも崩壊したのである。膨らませすぎた風船が突然破裂した。経済と社会全体は大きな転換を強いられた。過剰の融資を続けることを許していた大蔵省は解体され、財務省と金融庁に二分された。社会の風潮は萎縮して、いわゆるデフレの時代が続くこととなった。初めは成長の夢をもう一度と願う人も多かったが、やがてそのような夢想は諦めることとなっていった。
という次第で、「戦後」時代の前半は焼け野原から米国に次ぐ世界第2位の経済大国となった成功物語であった。しかしそれに次いでは、膨れ上がった期待値と過剰投資によるバブルがはじけて、長期デフレの局面に入ってしまった。そして社会の勢いもそれ行けどんどんという時代から、足元を見直して、身の丈に正直な人生観がもてはやされる時代へと推移した。米国を買い占めるかという勢いのあった日本の大企業にも、縮み思考が珍しくなくなった。
そこへ襲ったのが、大津波と原発の瓦解であり、新型コロナ・ウィルス対策の問題である。これで一気に「戦後」前半の夢をもう一度といった幻想を持つ人もいなくなり、ますます足元を見直しつつ自らの将来像を模索し始めている段階に入っている。そして前半期には現世利益を目指した宗派の繚乱が目立ったが、この後半期にはいわば魂の徘徊が取り沙汰されることが増えて、過激な宗派や既成宗教に頼らず自らの安寧を模索する霊性(スピリチュアリティー)の重視も盛んになった。
三.「戦後」の負の遺産と宗教の課題
山登りを経て谷底へと下ってきた長い80年に渉る、「戦後」時代を振り返ってみた。そしてそれを猛省してみると、二つの課題が浮き彫りになる。
(一)宗教アレルギー
振り返ると、明治維新の時には廃仏毀釈という、反仏教の運動が起こされた。それは新たな国民統合の支柱として、神道にその思想上の役割を担わせるために、それまで徳川幕府に重用されてきた仏教を抑圧しようとするものであった。多数の寺院や仏跡が襲撃された。貴重な仏像なども、野原の雨風にさらされることとなった。そこでそれまでに何世紀とまんじりともせずに表舞台への好機を待っていた神道が、ここぞとばかり国家神道の道を辿ることとなった。
こうした中、日本の軍国主義政策は破綻をきたして、すべてがゼロの振出しに戻ることとなった。ただし宗教はゼロの振出しというよりは、遥かそれ以前のマイナスの地点に立ち戻ることとなった。なぜならば、「仏も神も助けてくれなかった」という実感が広く強く国民間にはびこっていたからである。要するにもうたくさんだという、宗教に対するアレルギー現象が大きく表面化することとなった。
アレルギー症状ということは、社会の各方面での宗教の疎外化にも繋がった。それは宗教信仰を持つ人は、心が弱いか病んでいる人だという感覚である。差別的な視線を浴びせてもおかしくなく、今で言うとLGBT(レズビアン、女性同性愛者、ゲイ、男性同性愛者、バイセクシュアル、両性愛者、トランス ジェンダー、性別越境者)の人たちに向けられがちな冷たい視線に似ていると言えばわかりやすいのかもしれない。このような症状が、全国を覆っていたのである。
それに対して国民文化として横溢したのは、物欲の横行と偏重、道徳の衰え、自殺の多発などがあった。総じていえば明治維新は欧州を目標としたが、「戦後」は米国を目標とした。そして経済復興の旗振りの下で追いつき追い越せのシナリオを、明治維新よりも急速に実行する羽目になったのだ。軍人や兵隊は、企業戦士として生まれ変わることとなった。
宗教に関する政策的な措置としては、まず制度的に政教分離の徹底が図られた。公立学校での宗教教育の禁止、宗教活動への公費の支出禁止などが憲法にも盛り込まれた。この方針はもちろんGHQ主導で推進されたことは他の諸分野と同じであったが、異なっていたのは、相当程度に宗教に対してはすでに国民的な反発、忌避、嫌悪感が先行していたという事実であった。この宗教アレルギーの下で、政教分離はほとんど国民的な異論もなく、むしろ当然であり新生日本の自然なあり方として受け止められたものでもあった。大日本帝国陸海軍の解体と同列の話しとも言えよう。
「戦後」を通じて宗教信仰が低空飛行を続けたことは、日本人に精神面の悩みがなく、また精神の迷走を食い止めたいという、人間として自然な要求が薄かったというわけではなかった。多くの宗派の活動は存続したし、特に70年代以降の成長疲れがさまざまな新しい宗教的余波を及ぼした。新宗教、あるいは新・新宗教とも形容された多様な教派―多くは仏教系か神道系であるが、より予言的で霊能的―が、雨後の竹の子のように出現した。従来の救済宗教と生産効率だけの合理主義の間を縫うように、もっと個人の立場からの魂の落ち着きどころを探る兆候もしきりに観察された。それは総称として、新霊性文化とも呼ばれた。国内の巡礼が一時は流行したこともあった。だがそれらは、二一世紀に入った今日、いずれも日本を覆う勢いを示しているわけではない。
疎外された立場からは、広く大衆を惹きつける運動は期待しがたいものだ。どうしても肩身が狭い感覚に縛られるからだ。アレルギーの状況が、「戦後」の日本の諸宗教を覆う国民文化の基調となっているということなのであろう。
(二)人間復興と祈り
「戦後」時代の一つの大きな負の遺産が、宗教アレルギーであることはこれ以上論じる必要はないだろう。その症状の一端は、80年後に「戦後」の起伏が一巡してからの方向性喪失ともなっている。その間、人心の動揺と確たる信条や道徳観の喪失が指摘され、すさんだ事件が目立つ自殺多発国となった。他方相次ぐ天災や原発事故は、慰霊・追悼の意味、祭りの力、宗教施設や宗教者の意義に目を開かせることとなった。またそれは命の尊厳に光を当てると共に、人の力と近代科学文明の限界を示し、新たに心の癒しの問題に関心が集まることとなった。
宗教信仰は人間の持つ生来の半面でもある。祈らない人はいないのだ。この半面が素直にもっと育成され涵養される教育と社会のあり方が求められているとも言える。それは人間復興でもある。しかし長年月に渉り疎遠にしてきた影響もあり、この問題はほとんど組織的には正面から取り組まれていないのが実情ではないだろうか。
そこで宗教信仰復興に期待することとなるのだ。困った時の神頼みも別に悪くはないが、それにしても困ったときには頼るべき存在が維持されているからこそ、できる技ということになる。だから何も困る時を待つことなく、恒常的に祈りを正面から人々の日常に組み込めないものだろうか。それは信教の如何を問う話ではなく、宗派間を越えたアプローチである。それは黙祷と呼んでもいい。
祈りをあげる習慣がもっと社会の前面に出されるようになれば、時間単位の生産効率は下がるかも知れない。しかし労働する人間の意欲や共同の精神は高まっているはずだ。またどこであれ必要とされる人間的な配慮を、いつも心放さずいるという、人として当然の心構えもより整ったものになっているだろう。どちらが好ましいのかは、あまり議論をしても始まらない。総合的な考慮と長期的な視野の問われている問題である。
祈りの方法はあまり問題ではない。究極のところ、心の中の整理の問題だからだ。また現世利益的な実現直結型の祈りは、本来ではない。祈るという心の傾きこそが祈りの狙いだからであり、結果にはあまり縛られるものではないからだ。
どれほどこの信仰の世界、信心の様子が、自由で平等で安寧に満ちたものかについては、このHPの諸宗教紹介コーナーに掲載の「信仰心蘇生のために」という拙論で説明している。今ここでは、それは何事にも代えがたい、下手な比喩を許さないほどに、貴重で希少な天性の心の飛躍であるとでも表現しておくことにしよう。
また人間復興の必要性と宗教信仰が連動していることを認めるとしても、それでも科学の優先性を信じる人は少なくないだろう。もちろん科学と宗教の関係を全面的に取り上げるのは、本論の枠組みを超える。しかし一言触れるならば、著名なイギリスの宇宙物理学者の一事例であろう。つまりステーブン・ホーキング(1942年―2016年)は、「創造や進化に関して、神は必要ない。」と言ったとして不敬の非難が飛び交ったことがあった。その顛末は、結局「…証明されるなら、」という仮定の上での発言であったとして、ローマ法王と和解したことがあったのは、忘れられない。
祈りは自由の世界だとはいっても、やはり教育によりその手順や中身が充実される方が良いことは間違いない。そこで家庭であるか、宗教施設であるかは別として、宗教も教育の対象として取り上げられるのが望ましいということになる。その究極は学校教育に組み込まれることであるが、それは現在日本では、憲法が禁じるところとなっているのである。
(三)不徹底な社会改革
「戦後」時代の前半期は貧しいながらも、向上心に溢れたすがすがしさがあった。国民全体に生きがいなどは、あまり問題にされなかった。そうでなくなったのが、後半期の特色と言えよう。これでは何とも非分析的な表現だとの誹り(そしり)を免れない恐れがないではないが、そのような直感的表現こそが、短い中に本質を言い当てていると考えられる。そして現在は不透明で何を頑張っていいのかはっきりしない、長いトンネルを抜けようとする転換期にあるのだという、時代認識を得ることともなる。
幸いにも高度成長を達成できたが、その後は何が国民的な目標なのか、羅針盤がないという新局面に突入することになった。太平洋戦争を食い止められなかった一端の責任は有識者にあったと猛省していたはずの人たち自身は、その半世紀後、国民を食べさせることが実現したのだから、その次は何を目指すべきかと議論を始めていた。しかし結局彼らは、開戦を阻止できなかったばかりか、明確な次の方向を提示することにも失敗したということになる。
さらにその直後に襲ったのが 1990年以降のバブル経済の崩壊とその深刻な後遺症であった。それは高度成長と表裏一体の面も多かったという意味では不可避なものであったし、また経済史上、バブル現象は世界でも決して例外的で珍しいものではなかった。しかし日本経済にとっては、ただただ驚きと悔やみの日々を迎えることとなった。
これで日本は平和と民主を掲げた諸改革よりは、日銭稼ぎに忙殺される身分となった。そして諸改革の多くは、遺憾ながら道半ばで途中下車となった。経済復興が一応達成されたという大きな事実は残っているので、政治社会改革の方面も一応達成されたという漠然とした誤解も広く持たれたままで時間が過ぎることとなった。しかし選挙というと金銭が飛び交い、人権や民意の尊重という基本的な課題もまだまだ旧態然とした側面を残している。頻繁に聞かれる国会などを中心とした説明不足の叫びも、このような社会の公明正大化の不徹底さがなせる業である。
さらに一例は、新設の自衛隊に対するシヴィリアン・コントロールの徹底など、軍の制度改革は衆目にもさらされやすく、当然避けて通れない分野であった。しかし日々の諸問題を扱い、社会に近い存在の警察や検察に対する制度改革はどうしても後手に回されてきた。小さな変更でも市民への影響が直接的となり、果断な変革が難しい面があるからだろう。圧倒的な検察優位の捜査システムは、戦前の特別高等警察やさらに言えば、江戸時代以来の岡っ引きの名残も多分にあるのではないか。取調室には弁護士の同席は許されないし、検察側は裁判以前から捜査内容をメディアに流して、世論を捜査側に有利に誘導することなどが、日常茶飯に行われている。それに向かう、対抗力は被疑者には一切与えられていない。融通無碍な拘留制度も、国内外の世論によって長短が操作される。カルロス・ゴスン元日産会長のレバノンへの逃亡劇は誰が見ても違法であることは間違いない。しかし彼が日本の相当人権軽視の旧態然たる検察手法を逃れたという意味では、何がしかの同情の声も寄せられたのは、不当ではないということになる。
バブル崩壊後の日本社会は、アガサ・クリスティーの推理小説『オリエンタル急行』を思い起こさせるものがある。乗客全員の役割は異なっていても、同一事案の共謀犯になっているとも表現できる。もちろん日本全体では善意の人も多いし、ほとんどは無辜の市民による日々努力の積み重ねであることは間違いない。そこに倫理道徳的な問題があるわけではない。しかしその日々の営みが、無意識な共同の箱舟となっているということである。外圧の下でしか国内改革に合意しにくいという国民性も変わらない。国民全体が同じ運命共同体で、同じレールを走っている。日本固有の同調圧力も相変わらず根強く働いている。
再度の徹底した社会改革への挑戦の呼び声は聞かれない。道半ばで途中下車してしまった改革は風前の灯火か、あるいはすでにその灯は消え失せてしまったのかもしれない。現時点で、経済の復調だけではなく、社会改革が不徹底に終わっている「戦後」を猛省の対象にすべしと言わなければならない。それ自身が次の指針であり方向性だと位置づけることもできる。
(四)社会改革への参画
自由と民主という旗振りの下で一応80年間が貫き通されたのは、大変に慶賀すべきことであった。それに伴い、人権の意識は相当定着しており、それが日々の生活にも生かされるまでに成長したと思われる。その大きな成果は、特に表舞台に登場する政治経済の制度や、社会の主要動向である報道、教育内容などでは顕著である。
このように言う時にすでに明らかだが、それらから落ちこぼれた多くの手つかずの諸側面があるということを示唆している。役所が市民に冷たいという苦情は長く続き、その改善は非常に進んだが、その後多数の外国人の移住が進み、そういった外国籍者への扱いはどうか、総じて社会的な弱者に対する態度はどうかなど、見落とされた面も多い。また司法制度における、市民と公権力側の公平さはどうかについては、すでに前述した。こうした具体的な諸事例は、枚挙すれば暇はないということになる。
くどいようだが萎縮する世相の中で、積み残しとなった諸課題が多数あることを、改めて付言しておきたい。それらはバラバラの形で取り上げられがちであり、全体像が提示されるシステムが存在しないだけに、一般の意識も後ずさりしがちなのである。順不同ではあるが、教育改革(討論やスピーチの民主主義向け学科)、男女格差、社会的な弱者・無権利者・権利執行困難者などの救済(ホームレス、失業者、困窮者、被災者、病弱者、外国人、刑期満了の出所者など)、新たな権利の確立による救済(ハンセン病患者、被疑者の扱いなど)等々枚挙に暇がない。
そこでそのような社会改革の前進に対する宗教の立場はどうであるかが、本論の取り上げるべき問題である。もちろん個々具体的な働きかけと手を取りながらではあるが、宗教では総括的な発想からの発言や活動が期待されるだろう。それは時に道徳的で抽象的な声となるだろうが、そういう全般的な精神界の判断と指針を鮮明にするところに宗教の一つの働きがある。誠実さ、正義、慈悲、忍耐、寛容さ、感謝などの徳目が重視される。弱者救済や権力の横暴への抵抗運動は、歴史的に見ても宗教が力を発揮してきた分野であった。
このような宗教の社会的機能は、アレルギーの症状ですっかり忘れ去られているかのようである。確かに2014年の安保法案決定の時には、国民的な抗議運動に加わり、多数の宗教団体から同法制反対の意思表明がなされたことはあった。しかしそれが珍しく映ったほどに稀なことであり、通常は腰を低くして矢面に立たないのがよく見られる姿勢である。これこそは社会の反発を避けつつ生き延びる術であり、それはアレルギー症状のもたらしているものである。本来は人間の半面である精神界を受け持つという誇りと責任感に満ちていておかしくないはずなのに・・・。
今日現在の風潮としては一層の改革よりは、日本の「民度」の高さ、個人よりは集団的価値の重視、「日本人は論理的でなくて良い」といったように、日本民族特殊論の視点から復古調が出回り始めている。中座してしまった改革をさらに推し進めるために自らに対して鞭を打つのではなく、途中下車した地点から何食わぬ顔をして再出発しようというのだ。歴史の展開としてはそのような選択肢もあるのかな、といった感覚を持たせられる。そして、これも転換期の一兆候である。
ところがまさしくこの時点で、一層柔軟な議論と当初に顕在であった公明正大さ志向の精神を忘れずに、自らに厳しい選択が望まれる。宗教は、人はいかに生きるべきかの指針を出している以上、具体的な問題の名称は何であれ、政治社会的な諸課題に口を閉ざすべきいわれはない。また社会参画をすることは、宗教信仰復興そのものに対しても大いに刺激となり、宗教信仰本来の姿を取り戻させてくれるものがあるはずだ。
(五)宗教と憲法改正
相変わらず根強い宗教アレルギーの他に現在の宗教状況の根幹を規定しているのは、現行憲法の政教分離条項である。本論で取り上げる趣旨は、一気にその改正の実現を図るというものでないことは、課題の大きさに鑑みてほとんど自明である。ここの意図は、論点の簡潔な整理とあり得る将来の可能性の示唆ということである。ただしそれを遠大なものとしてではあっても、宗教の社会参画の流れの中で明確に意識し、目標として掲げておく意義は大きいと考えられる。
ア.問題点:主たる争点は、宗教に関する教育のあり方及び宗教に関する財政措置という二点に絞られるだろう。ただしその背景としては、次の理解が必要である。宗教には個人的な側面と社会的な側面とがあるが、それらは時に重複し交錯する。一方個人的とはいっても、芸術同様に宗教が持つ情操涵養の側面は万人に対するものであり、それは人類的とも言えよう。またそれは実証主義に基づく近代主義とは相容れない直観による面が強いものでもあるが、人間の持つ本性からして芸術同様否定されえない。このような特性を踏まえた上での議論が必要である。
イ.教育面:現行憲法第20条には、次のようにある。
第1条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2条 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3条 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。」(教育基本法第15条)というこの規定振りはそのまま生かされる。しかし同法原案(昭和21年)にあった、「宗教的情操の涵養は、教育上これを尊重しなければならない。」を生かして、右の教育基本法第一五条は「一般的な教養や宗教的な情操」とすべきである。宗教は前述のように人の本性から出て来るものだとの理解より、芸術教育と少なくとも同列に扱うべき性格であるからだ。そこで以上の筋書きを憲法上も反映すべきである。
具体的には、憲法第20条第4項として、「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養や宗教的な情操及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。」と新たに追記する。
ウ.財政措置:宗教系私立学校への公金支出や宗教法人の減免税措置が課題となる。
宗教教育に対する姿勢が改められれば、自ずと宗教諸学校への補助金に対する基本姿勢にも前向きな変更が期待される。なぜならば公金による補助は、一般的な宗教教育の支持に他ならないからである。しかしそれは特定の宗派宗教を対象とするものでありえないのは言うまでもない。
具体的には、憲法第89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」の改訂が課題となる。
同様に、公益性の高い法人の活動を支持するところより来る減免税に関する特別措置はすでに実施されているので、改憲との関連性は今のところない。
エ.以上のほかに公民館などの使用を宗教法人には認めないことなども、如上のような改憲がなれば自ずと改善されうる。狭い意味の学校教育ではないが、公道での祭りを承認する場合と実質差がないという認識に至れるかどうかである。一般には宗教の持つ社会的な儀礼、情操涵養、文化の多様性と寛容性の育成などの効果を目途とし、日本における一段と高いレベルの社会常識の定着が前提となるであろう。
おわり